遠坂凛を除く各魔術師がマスター候補と接触してから──四日後。

叡光大学(えいこうだいがく)の図書館。

その奥まった席に、一人の男子大学生が腰を据え、厚い本に目を落としていた。

彼の名は、私市一竜(きさいちいつる)

史学科に在籍し、子供の頃から歴史に心を惹かれ続けてきた、真面目で少し変わり者の青年である。

彼はまた、自己啓発本を読むのも好きだった。

“よりよく在る”ための答えを探して、本と向き合う時間を何よりも大切にしている。

「(井伊直虎……正式な存在証明は未だ曖昧だけど、尼から女城主へ──その決断の理由って、何だったんだろう…?)」

一竜の視線は、戦国時代に生きた謎多き女性に注がれていた。

井伊直虎──名は知られながらも、その生涯にはいくつもの謎がつきまとう。

実際、彼女の存在を裏付ける史料は一通の書状のみ。

だがだからこそ、一竜のような歴史好きの興味を強く引きつける存在でもあった。

その日も彼は、閉館時間ギリギリまで彼女の足跡を辿っていた。

「(…今日はここまでにしておこう。続きはまた明日だな。)」

そう思いながら、一竜は机に積まれた本を丁寧に元の場所へ戻し、図書館をあとにした。

そしてその足で、隣町の書店へと向かう。

予約していた一冊を受け取るために。

そんな一竜が構内の西門から出講したと同時に、正門に入構する一人の女性の姿があった。

黒髪を揺らし、制服に似たシンプルなジャケットを纏う、端正な顔立ちの女性。

時計党所属の魔術師、遠坂凛だ。

時計塔から派遣された魔術師でありながら、未だ担当すべきマスターと出会えておらず、苛立ちを隠せない様子で構内を歩き回っていた。

そんな中、校舎脇のベンチに腰掛けた男子学生二人が、談笑する声が耳に入る。

「そう言えば、一竜って最近ずっと図書館に入り浸ってるよな?」

「あぁ。 なんでも、歴史上の人物でどうしても謎の解けないのがいるから、それについて調べたいんだってさ。」

「ははっ、アイツも本当に好きだなぁ。 俺もアイツほど歴史が好きだったら、講義も面倒じゃないんだろうなぁ。」

彼らは、一竜について話している様だ。

その話をひっそり聞いていた凜が、二人の元に静かに歩み寄った。

「ねえ、ちょっといいかしら?」

その一言に、学生たちがびくりと肩を跳ねさせる。

「……え?」

そんな学生達の反応を余所に、凛がそのまま話を続ける。

「 私市一竜くんの話をしてるわよね? 彼がどこにいるか知ってる?」

どうやら、彼女が探しているマスター候補こそが、一竜の様だった。

「えっ? 一竜ですか? そう言えば今日は隣町の書店で予約してた本があるって言うから、そっちへ行くみたいですけど?」

美貌と強気な眼差しの持ち主にいきなり話しかけられ、二人はやや気圧されながらも応じた。

「ありがとう。助かったわ」

凛はそれだけ告げると、踵を返して足早に正門へ向かった。

「…なぁ、あのお姉さんって一竜の何なんだろう?」

「まさか、彼女か何かだったりして?」

「ははっ、本としか向き合ってない一竜に、あんな綺麗な年上のお姉さんの恋人がいるなんて想像できないって。」

男子大学生たちは、呑気にまた談笑を再開する。

そんな会話を背に、凛の姿はもう夜の街へと消えていった。

──そしてその頃、隣町。

一竜は予約していた自己啓発本を受け取り、満足げに書店を後にしていた。

「(…これで十冊目。いろんな視点を集めれば、何かが見えてくる気がするんだ…。)」

“自分は何者かになれるのか”──

そんな漠然とした問いに、若き彼は本の中で答えを探していた。

「(折角だし、ちょっと寄り道してから帰るか。)」

一竜は書店で買った本をバッグに入れて、そのまま当てもなく、気まぐれに町中を寄り道するのだった。

そのまま人気(ひとけ)の少ない道を歩くと、路地裏に何やら音が聞こえる。

ブゥンッと空を裂く何かが振るわれる音、パァンッと何かが爆ぜる音、タタタタッと靴音が駆け抜ける音、どう考えても尋常ではない。

「(? 何だろう…?)」

一竜は怖気づくどころか、その音に引かれるように路地へと近づいていった。

そして──見てしまった。

銀髪の浅黒い肌の青年が、長槍を携えて跳ねるように動いている。

その相手は、スーツにハット、手には拳銃、いかにもギャング然とした風貌の男。

さらにこの闘い、どうやら一対一の闘いではない様だ。

銀髪の青年の後ろにはお下げ髪の大人しげな女性──小鳥遊亜梨沙(たかなしありさ)

ギャング風の男の後ろには、見るからに堅気ではなさそうな男──猪狩昌真(いかりあきさだ)

「ランサー、大丈夫?」

「ははっ! 亜梨沙、オレを誰だと思ってんだよ? ちょっと様子見してるだけだっての!」

ランサーと呼ばれる槍の男は、余裕な笑顔で、亜梨沙の心配の声掛けにそう応える。

「親分、いざとなったら俺が自信を強化して助太刀するぞ。 そうなったら最早俺だけでも十分かもしれないけどな。」

「はっ! 昌真、調子に乗るなよ? その前に、俺様がケリをつけてやるよ。」

対する猪狩とギャング風の男も、軽口を飛ばし合う程には余裕を見せていた。

こんな状況、平和に暮らしていたらまず目にすることなどない。

一竜は、そんな妙な光景に息を呑んでマジマジと見続ける。

「えっ… なんだ、これって? 撮影…じゃなさそうだし…」

一竜にはまだ目の前の現実が理解できず、これが何かの撮影かもしれないとまだ疑っている。

そこでギャング風の男が、一竜の存在に気付き、視線をそちらへ向ける。

「おや、観客かい? だが、見世物(みせもん)じゃねぇんだな。」

ギャング風の男は言うが早いか、不敵な笑みで飄々(ひょうひょう)と、手にした拳銃を軽く構え、引き金を引いた。

──その弾道が、一竜の頬を掠める。

「……ッ!」

頬を走る灼熱と、血の感触。

「(…痛い。 これ、マジのヤツだ…!!)」

一竜も走る頬の痛みと滴る血液にいよいよ現実を受け入れ、自分の危機的状況を理解し、これまで感じたことのない様な恐怖に、冷や汗と震えが止まらない。

「おい、やめろ! そいつは一般人だ!!」

ランサーが声を荒げ、ギャング風の男へそう言い放つ。

「そうだぞ親分、カタギには手を出さないでくれって!」

猪狩も、焦りつつギャング風の男を説得する。

「でもよう、昌真。 見られちまった以上、片づけなきゃなあ? バレなきゃ合法──そうだろ?」

それでもギャング風の男は、これまた不敵の笑みで飄々(ひょうひょう)とそう言い返し、再び銃口を一竜に向ける。

「俺様はな、アサシンとして──狙った獲物は絶対に逃がさねぇ。逃げられるなんざ、沽券に関わるってもんよ!」

話を聞く限り、アサシンと自称するその男はそれなりの品位がある様だ。

「くっ……!」

それに対して一竜が、まだ血が流れる頬を押さえながら、その場から逃げ出す。

「おぅおぅ、この俺様から逃げようったって無駄だぞぉ?」

「親分、ちょっと待ってくれって!」

アサシンが、スモークグレネードをランサーと亜梨沙の足元に投げて、不適な笑みで一竜を追いかけ、更に猪狩も彼の後を追う。

それと同時に、スモークグレネードが発動し、その煙がランサーと亜梨沙を包み、視界を真っ白に遮られ、更に二人してその煙を吸って咳き込んでしまっていた。

煙が晴れた頃には、もうアサシンと猪狩の姿がない。

「くそっ、早くしねぇと一般人が巻き込まれちまう! 亜梨沙、オレ達も行くぞ!」

ランサーが、後れを取りつつもアサシンを追いかける。

その速さは、陸上競技の短距離走の選手が尻尾を巻いて逃げる程に速い。

「えっ!? 待ってよぉ! ランサー!」

亜梨沙もあわあわしながら、ランサーを追いかける。

だが、その速さはランサーどころか一般の女性よりもお世辞には速いとも言えず、彼女の運動神経の低さが露わとなっている。

──混乱の中、一竜の運命は、大きく軋み始めていた。