一竜は全力で走っていた。

だが──頬をかすめた弾丸の痛みと、さっきまでの異常な光景が頭から離れず、足は思うように動かない。

「っ……くそ、ヤバい! とにかく、あそこの路地に──!」

咄嗟の判断で細い路地裏へと身を滑り込ませる。

本来ならば、追われている時に袋小路に飛び込むのは愚策以外の何ものでもない。

だが今の一竜に、冷静な判断を下す余裕はなかった。

その様子を、1人の黒髪の女性が目撃していた。

──遠坂凛である。

「…見つけた! 資料と同じ男の子、私市一竜だわ!」

彼女の瞳が鋭く光る。

ようやく“探していたマスター候補”と接触できる。

だが──

彼の頬からは血が滴り、明らかに只事ではない様子。

かつての聖杯戦争、ある同級生の初陣を思い出させる光景だった。

「…はぁ、なんでわたしが関わる男って、いつもこんなに世話が焼けるのよ!」

凜はため息交じりでそう毒づきながらも、一竜の元へと駆け出す。

その歩幅には、焦燥と使命感が宿っていた。

──路地裏の奥、暗がりの中で、一竜は肩で息をしながらしゃがみ込んでいた。

頬の傷口を押さえる手は、べったりと血で染まっている。

その時、足音が──近づいてくる。

「(マズい! 見つかった!?)」

息を殺して。足音の先に目を凝らす。

しかし、そこに現れたのは──見知らぬ、美しい女性だった。

そう、凜が一竜の元へ着いたのだ。

「私市一竜くんね? 探したわよ。」

凜の唐突な第一声、その手には、古びた鉄の破片──日本の甲冑の一部らしきものを持っている。

そして次の瞬間、その甲冑片で一竜の頬を乱雑に拭った。

「……えっ?」

目の前の謎の美人、急に甲冑の一部で血を拭われ、一竜は痛みと驚きで声が裏返る。

そんな一竜を置いていくかの様に、凜は状況説明など一切せずに、何かを取り出し始めた。

──魔術陣が描かれた展開シート。

その中心に、甲冑の一部と、水銀に溶かした宝石が置かれる。

「何も聞かないで、このページを読んで!」

全てを設置し終えた凜が、開いた魔導書を一竜へ手渡し、詠唱の音読を急かす。

「…えっ? ちょ、ちょっと待ってください!? なんですかこれ──!?」

一竜の混乱は極限に達し、何一つ理解が出来ずにいる。

「早くっ!」

凛の怒声に押され、一竜はほぼ反射的に、まだ理解が追い付かないまま声に出して詠唱を読み上げる。

素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。

これより、主たる座を拝借する。

降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。

閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)

繰り返すつどに五度。

ただ、満たされる刻を破却する。

────告げる。

汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。

聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。

誓いを此処に。

我は常世総ての善と成る者、

我は常世総ての悪を敷く者。

汝三大の言霊を纏う七天、

抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ───!

──詠唱の最後の言葉を読み終えた瞬間、魔法陣が光を放ち、風が唸りを上げた。

光の中心から、空間がねじれるような異音が響く。

その時──

「──へへっ! 見つけたぞ、坊や!」

「親分! もういいって!」

路地の入口から現れたのは、不敵な笑みのアサシンと、そのマスターである猪狩。

「貴様ら、追いついたぞ!」

続いてランサーも追いつき、その場は一気に混沌とする。

だがその中、魔法陣の輝きが極限に達し、眩い閃光とともに“それ”は現れ、一同はその方向に注目していた。

──鉄と布の鳴る音。

そこに立っていたのは、戦国時代の女性武士を思わせる、凛とした佇まいの人物だった。

短く整えられた黒髪、柔らかな中にも芯の強さを感じさせる眼差し。

「──御身(おんみ)が私のマスターですか?」

甲冑の女性武士が、一竜へそう問いかける。

「??? えっ!?」

一竜の脳は混乱の限界を超えていた。

風変わりな男性たちの白兵戦、その中の一人に命を狙われ、見知らぬ美人に謎の儀式を強いられ、仕舞いには魔法陣から女性武士、平和に暮らしていてここまで非現実のフルコースを味わうことがあるだろうか?

「肯定して!」

凛が一竜にそう耳打ちをする。

最早、一竜にはこれ以上思考する余裕がない。

「…はい。」

凛の言葉を鵜吞みにするかの如く、甲冑の女性武士の問い掛けに応える。

それと同時に、一竜の右手の甲から、謎の紋章が浮き出る。

「これでようやく契約成立ね。」

凛は安堵の息を吐き、道具一式を乱雑に片付け始めた。

その間に、女性武士はすっと刀を抜き、アサシン陣営へと視線を向ける。

「我がクラスは"セイバー"。 サーヴァントとして、マスターを守ります!」

セイバーと自称する女性武士が刀を抜き、アサシンの前に立つ。

そのアサシンの後ろには、ランサーが槍を構える。

アサシンは見事に二つの陣営に挟まれて、圧倒的に不利な状況である。

「へへっ……こりゃいけねぇ。 二対一じゃ分が悪りぃな。 昌真、ずらかろうぜ!」

「…あぁ、そうだな。」

猪狩とアサシンが目配せを交わし、再びスモークグレネードを投げつける。

辺り一帯を煙が包み、一竜達は咳き込みながら目を凝らす。

そして、煙が晴れた頃には、アサシンと猪狩の姿は消えていた。

「はぁ… はぁ…。 いたいた…。 ランサー、速すぎるよぉ…。」

ようやく亜梨沙が追いつき、膝に手をついて呼吸を整える。

「…って、えぇっ!? またサーヴァント!?」

そして、セイバーを視認した亜梨沙が、眼鏡がズレる勢いで声を上げ驚いた!

彼女にとっても初めての戦闘だったのに、連戦の恐れがあると思い、焦っているのだろう。

これに対して、セイバーが再び刀を持って構える。

しかし──

「はっはっは、まぁ待てって!」

ランサーが笑いながら制止する。

「アンタらは今契約したばっかだろ? そんな初々しい陣営とやり合う様な、アンフェアなオレじゃぁねぇよ!」

ランサーは高笑いで続け様にそう言い放ち、陽気に一竜の肩をポンと叩く。

「まぁ、慣れてきた頃に一度闘おうや。 じゃあな!」

その顔は、先程までの戦場の鬼とは別人のように涼しげだった。

「亜梨沙、帰るぞ!」

ランサーが亜梨沙にそう言い放つ。

「えぇ! また走るのぉ!?」

亜梨沙は見た目に違わず体力がないのだが、先ほどもランサーを追いかける為に走ったばかりでフラフラだと言うのに、今度は撤退で走ると知って根を上げだす。

「はっはっは! なんだったら負ぶってやろうか?」

「もうっ、ランサー! 恥ずかしいからやめてよぉ!」

そんなやりとりをしつつ、二人は夜の街へと消えていった。

残されたのは──一竜、凛、そしてセイバー。

「…ってそうだ! お姉さんって何者なんですか!? それと、この甲冑のお姉さんは!? そんで三つ編みのお姉さんとその筋のおじさん、後さっきの槍の人とギャングっぽい人は!?」

一竜は、パニックと疲労で早口になり、ただ闇雲に凜に詰め寄る。

「一遍に聞かないでよっ! 順番に説明するから、まず落ち着きなさいっ!」

凛の一喝に、一竜はまるで条件反射の様に背筋を伸ばし、直立不動となる。

その反応速度、0.37秒。

「……さて、じゃあ話すわね。」

凛は静かに、そしてどこか重みのある声で口を開いた。

「結論から言うと──貴方は今、このセイバーと共に“聖杯戦争”という、七組のマスターとサーヴァントによる殺し合いに、強制的に巻き込まれたの」

凜から話される内容はしっかりとまとめられているが、あまりにも淡々としている。

「・・・えっ? 聖杯戦争? 殺し合い?」

一竜の瞳に、理解が追いつかない焦点のズレが見える。

だが──ただ一つだけ、確信出来ることがあった。

完全に、とんでもない世界に足を踏み入れてしまったのだと。