歓楽街の一角。
ネオンの灯りが滲む路地裏のバーにて、ひとりの男が琥珀色の酒を傾けていた。
その男の名は、猪狩昌真。
鋭く切れ長の目、喧嘩慣れした鍛え上げられた体格、そして纏う空気は、誰が見ても「その筋」の人間とわかるほどだ。
「昌ちゃん、まだ見回り途中だってのに1杯やっちゃって大丈夫なのかい?」
グラスを拭きながら、バーのマスターが猪狩に軽口を叩く。
「あぁ、いいんすよ。 今日の見回りもこの店で最後ですし。 親父さんからも、町の景気に貢献する様に言われてますんでね。」
猪狩は薄く笑いながらグラスを傾けた。
彼は歓楽街の裏側を取り仕切る組織・古井戸組の構成員。
ケツモチ業から店舗管理、果ては路上の小競り合いの鎮圧までを担う中堅の男だ。
齢三十七にして、裏社会では名の通った存在である。
「その気持ちもありがたいけどねぇ… アンタ達にケツモチして貰って金を払ってんだから、売上に貢献も何もないさ。」
バーのマスターも次のグラスを拭きながら、猪狩と談笑をする。
「ははっ。 親父さんは、“細かい善行の積み重ねが信用になる”って本気で信じてる人ですからね。」
猪狩も酒で少し気持ちが薄くなり、普段の険しい顔にも、わずかに緩みが見える。
その時—バーの扉が軋む音と共に、ベルの音がカランカランと店内に鳴り響いた。
「いらっしゃいませ。」
マスターが手を止め、来客に向かって声をかける。
ケツモチしている以上に、その客人が気になる猪狩も視線を扉の方へ向けた。
一歩、また一歩と店内に入ってくるその男は、整えられた顎鬚、引き締まった体、強い眼光を持つ異国の男だった。
時計塔の魔術師、ミルコ・ボテッキアだ。
「…スコッチのロックを一杯。銘柄は、そちらのおすすめで。」
無駄のない所作で猪狩の隣に腰を下ろし、静かに注文する。
「かしこまりました、少々お待ちください。」
マスターが礼を返し、棚から一本のスコッチを取り出す。
「…アンタが猪狩昌真氏だな?」
ミルコが早速、猪狩にそう問いかける。
「…あん? そうだが? …お前、ただのカタギじゃなさそうだな?」
猪狩が手に持ってる酒のグラスを置き、ミルコへ首を向けながら会話をする。
「見抜かれたか。私はミルコ・ボテッキア。時計塔の魔術師をしている。」
ミルコは、猪狩のヤクザとしての察知の良さに関心しつつ、自らの自己紹介も始める。
「…魔術師ってのは、あの家系だの派閥だのが入り組んでる連中か……で、その魔術師さんが俺に何の用だ?」
魔術師の噂は、その筋の界隈でも耳に入っており、知識として広く知れ渡っている様だ。
猪狩は肩の力を抜かず、淡々と問い返す。
「話が早くて助かる。 結論から言おう。 アンタは聖杯戦争のマスターに選ばれた。」
ミルコは、猪狩の警戒心と理解力の高さを認めながら、本題を切り出した。
マスターが差し出したスコッチのグラスを受け取り、ミルコが軽く一口飲む。
「……聖杯戦争。 聞いたことはある。魔術師の間でやってる、命を賭けたきな臭い儀式の類だろ?」
その筋の情報網は侮れず、猪狩も噂程度の知識はあるようだ。
だが、それでも自分が選ばれたことには首をかしげている。
「ああ、その通りだ。 ただし、今行われようとしているのは“新制度”による特別な形式。 一般人であるアンタの様な者も、正式に“マスター”として参加する権利がある。」
ミルコは"新制度"自体は賛成派なので、特に否定的なことは言わずにそのことについて話す。
「そっちの業界の仕組みはよくわかっちゃいねぇが……そういう話を聞く機会も、たまには悪くねぇな。」
猪狩はまだ完全には納得していないが、裏社会で生きる者として、話を無碍にはできない。
「…わかった。 この一杯が終わったら少しばかり話をしよう。 ここは私の奢りだ。」
ミルコがそう言いだし、自分の分と猪狩の分の勘定を先にマスターへ差し出す。
「(…なにも起こらないとも言い切れねぇ。 スマホだけは手放さねぇ様にするか。)」
初対面の人間が突飛な話をし出す上に酒を奢るなど、そんな美味い流れに猪狩はまだ警戒心が溶けている訳ではない。
猪狩とミルコがバーを後にし、ミルコが宿泊している近くのホテルの一室へ向かう。
無機質な室内に、魔術師らしい私物だけが無造作に置かれている。
「そうか。 一般人がランダムにマスターとして選ばれるってのが、その"新制度"ってやつの詳細か。」
猪狩が腕を組み、ミルコから語られる”新制度”に思案する様に呟いた。
「その通りだ。 今まではその聖杯で願いを叶えられる対象が、魔術師や英霊だけでなく、その代理マスターである一般人にも当てはまることだ。 命のリスクは大いに伴うが、それも含めて変革なんだ。」
ミルコも、"新制度"についてのメリットやデメリットについて自分なりに語る。
「命を張るなんざ、今に始まった話じゃねぇ。 この話も断ったら、他の陣営たちに命を狙われるってことだろ?」
そこはやはりその筋の人間である猪狩、命に関する話に対して察しがよい。
「やはり話が早いな。 では早速、英霊召喚の準備と行こう。」
ミルコの部屋の隅にあるバッグから、魔導書に溶解した宝石、水銀、英霊を召喚する為の触媒であるボロボロのハット、魔法陣の展開シート、そしてナイフを取り出して揃える。
「ほう… これがその儀式ってやつか。」
猪狩が見たその光景は、噂で聞いたものそのものだった。
「そうだ。 この召喚を経て、英霊を召喚するんだ。 これがこの儀式によって召喚される英霊の真名のメモ書きだ。 解っていると思うが、内容は厳重に扱ってくれ。 口外は厳禁だ。」
件のメモ書きを猪狩に手渡し、そのメモの内容を見たところ——
「マジかよ…。」
猪狩のその声音には、驚きと僅かな興奮が混じっており、口元をわずかに緩めていた。
「では、始めよう。 そのナイフで指先を切り、血を魔法陣に落とすんだ。」
猪狩は無言でナイフを握り、手慣れた様子で指先を切りつける。
これまでに鉄火場で数々の死地を乗り越えて来た彼からしたら、指先を切るなんて大したこともないだろう。
鮮血が一滴、また一滴と魔法陣に滴る。
「よし。 最後に、この魔導書の詠唱の頁を読んで、サーヴァントを召喚しよう。」
猪狩は、ミルコが差し出した魔導書を受け取り、その中の召喚の詠唱を唱える。
素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。
これより、主たる座を拝借する。
降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。
閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。
繰り返すつどに五度。
ただ、満たされる刻を破却する。
────告げる。
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。
誓いを此処に。
我は常世総ての善と成る者、
我は常世総ての悪を敷く者。
汝三大の言霊を纏う七天、
抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ───!
その声には張りがあり、覚悟が伺えられる。
──やがて、魔法陣が蒼白く輝き、風が部屋に渦巻く。