都内のコワーキングスペース。
その一角で、静かにノートPCに向かう男がいた。
彼の名は、冨楽謙匡。
自宅そのものは地方だが、仕事やプライベートの都合で都内に頻繁に立ち寄る生活をしていた。
そのため、外での拠点としてこのスペースをよく利用している。
「(…よし、今日はここまでにしとくか。 ちょっとなんか食べてからゆっくり帰るかな。)」
冨楽は作業に一先ずキリがついたので、所属の会社の貸与品であるノートPCを静かに閉じ、リュックサックに仕舞い、コワーキングスペースから退出する。
ビルのエントランスを抜け、外の空気に触れたその瞬間──
「冨楽謙匡様ですね?」
不意にかけられた声に、冨楽はぴたりと足を止め、眉をひそめる。
声をかけたのは、時計塔の魔術師のシリル・ファラムスだった。
「うわっ…なんなんですか、急に!? どうして俺の名前を…!?」
相手は前髪から除く不敵な笑みで話しかけるものなので、これでは冨楽でなくても怪訝な表情でそう問いかけても不思議ではない。
「失礼しました。 改めまして。 私は魔術師のシリル・ファラムスと申します。 お近づきの印に名刺をお渡ししましょう。」
シリルの白くて細い指から渡されたその名刺には、筆記体英語で名前や肩書が書かれている。
「…魔術師? しかも外国人かぁ。 筆記体じゃなかなか読めないし…」
冨楽はまだ理解が追いつかず、首をかしげながら訝しみ、困り顔を見せる。
「それで、その魔術師のアンタが何の用ですか?」
冨楽はやや面倒くさそうに尋ねる。
その態度に、シリルはどこか楽しげな笑みを浮かべたまま答えた。
「では、単刀直入に申し上げましょう。 あなたは、聖杯戦争と言う面白い儀式のマスターに選ばれました。」
シリルが両手を前に軽く出して、まるで無邪気な子供のように活き活きと発言する。
「…は? …聖杯戦争?」
唐突すぎる宣言に、冨楽は完全に思考を停止する。
「詳しいお話は別の場所でしましょう。 お食事もまだでしたら、私がご馳走致しますよ?」
シリルが聖杯戦争について詳しく話すために、場所を移しに冨楽へそう提案するも──
「いやいやいやいや、ちょっと待った! なに勝手に話を進めてんですか!? 警察呼びますよ!?」
困惑と警戒が入り混じる中、冨楽は当然のごとく通報を示唆する。
「まぁまぁ、落ち着いてください。 この話を断ってしまっては、むしろ冨楽様は他の勢力に命を狙われてしまいますよ? これも貴方の為に申していますので。」
それでも尚シリルは、冨楽が通報を示唆することも予想していたかの様に、怪しい笑みを崩さず、話を続けていた。
はっきり言って、"貴方の為に"など信用できない言葉の代名詞だが…
「……命を狙われる!? ……もう、なんなんだよ、一体……。」
冨楽はまだ信じがたい様子なのか、まだ表情が訝しんでいる。
「ご安心ください、決して悪い様には致しません。 お付き合いください。」
シリルの前髪から覗かれるくっきりとした二重の目から、不思議な光が見られる。
「…わかりましたよ! とりあえず話くらいは聞いてやります。でも、何かあったら通報しますからね!?」
冨楽が、シリルのその不思議な双眸を見て、一先ず彼の話に乗ることとした。
これには、シリルのその目に何やら力があるようだ。
「そう来なければです! それでは、私の宿泊先へ向かいましょう。」
シリルが積極的になりだし、スマートフォンのアプリを使ってタクシーを手配し始める。
「いよいよ変な話に(乗っかってしまった…。 どうなるんだろうなぁ…。)」
冨楽にはまだ不安が拭え切れず、右手にはスマートフォンを手放さない様にし、成すがままに、シリルと同行していくのだった。
冨楽とシリルは、都内のホテルの一室へと辿り着く。
そこが、件のシリルの宿泊先の部屋だ。
室内には最低限の生活用品と、ルームサービスで運ばれた料理が並んでいる。
「それで、その聖杯戦争についてさっさと説明してもらえますか?」
冨楽はちゃっかり料理に手を伸ばしつつも、目の前の異常な状況への対応に苦戦していた。
「畏まりました。 それでは、ご説明いたしましょう。」
シリルはそう言うと、ワイングラスを手に取りながら、どこか芝居がかった口調で語り始めた。
「聖杯戦争というものは、魔術師同士がサーヴァントと呼ばれる英霊を使って、願いが叶うといわれる"聖杯"を取り合う戦争を行う、文字通りの儀式でございます。」
活き活きと、そして楽しそうに語るシリルを目の前に、冨楽は聞き捨てならない言葉に引っ掛かり、訝しい顔を見せた。
「…戦争って言うと、やっぱり殺し合いってことですよね? それって。」
「その点についてはご安心ください! 聖杯戦争は、"新制度"になってより公正になりました。 一般の方々がマスターとなりますので、理論上はマスター同士の無駄な殺し合いも減り、安全に進行できますよ。」
そこは流石の新制度賛成派であるシリルで、活き活きと両手を広げながら、明らかに都合の良いことばかりを並べて説明を続ける。
だが、シリルの言葉にはどこか魅了されるような響きがあった。
「……つまり、参加すれば願いが叶う“かもしれない”ってことですか?」
「ご名答です! 険しい道ではありますが、その先には貴方だけの極楽が待っているのです。」
シリルの目がまた不思議な輝きを放ち、冨楽を見つめながら語る。
「はいはい、わかりました、わかりましたよ。 その聖杯戦争に参加する意思を見せればいいんですよね?」
冨楽がその目を覗いて、じわりじわりとシリルの成すがままに合意する。
「そのお言葉を待ち望んでおりました! それでは、英霊の召喚の儀式を実行いたしましょう!」
シリルが声を高らかにし、テーブルの近くのバッグから魔導書、溶解した宝石、水銀、英霊を召喚する為の触媒である焼けただれた藤の茎、魔法陣の展開シート、そして鋭く光るナイフを取り出して揃える。
「……え、もうやるんですか?」
シリルの淡々とした準備に、冨楽が軽く慌てながら問いかける。
「ええ、今すぐ。 そちらのお国でも"善は急げ"と言いますでしょう? 私の祖国での"太陽が照っているうちに干草を作れ"と同じ意味です。」
ここまで来てしまったら最早シリルの独壇場、冨楽がペースを奪われている。
そんなシリルも巧みな話術をしながらも、もう魔法陣のシートの上に、触媒や水銀や溶解した宝石を丁寧に並べ終える。
「これで粗方準備が整いました。 このナイフで指先をお切りなさって、その血液をこの触媒に垂らして、魔力の供給をお願いします。」
シリルが、件のナイフを両手で冨楽に渡す。
「えぇ、そんな指先を切りつけるなんて嫌ですよ…。」
もちろんこんな行動は、冨楽でなくてもそうなるに決まっている。
「ご安心ください。 大金や個人情報を要求されるよりはリスクも御座いませんので。」
「例えがおかしいでしょう…もう、わかりましたよ。 さっさと終わらせますよ?」
こんな状況になってしまっては、冨楽も最早深く考えることも億劫になってしまうのだろう。
そのまま、諦めた様な気持ちで指先を切りつけ、痛みに眉を動かし顔を濁らせながら、血液を魔法陣へと垂らす。
「はい、結構で御座います。 最後に、この魔導書のページをお読みなさって、英霊を召喚しましょう!」
冨楽の手には、シリルによって開かれた魔導書が手渡される。
そして深く息を吸い、その中の召喚の詠唱を一気に読み上げる。
素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。
これより、主たる座を拝借する。
降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。
閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。
繰り返すつどに五度。
ただ、満たされる刻を破却する。
────告げる。
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。
誓いを此処に。
我は常世総ての善と成る者、
我は常世総ての悪を敷く者。
汝三大の言霊を纏う七天、
抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ───!
──魔法陣が淡く光り、風が部屋中に渦巻く。
書類が舞い上がり、カーテンがはためく中──
その中には、この世の物とは思えない大きさの人影が…!?