アーチャーとランサーによる、確かな友情に裏打ちされた決闘から一夜が明けた。
夏の陽が高く昇った、叡光大学キャンパス内のいつもの休憩所の軒下のテーブル席には、共通科目の講義を終えた一竜と恵茉の姿があった。
一竜はキンと冷えたペットボトルを手に、向かいの恵茉を静かに見つめている。
対して恵茉は、スマートフォンを耳に当て、誰かと通話中だった。
『……そう。 アーチャーは退場してしまいましたのね。』
気高く、そして揺るがぬ声音の主は、彼女の監督役のルヴィアだった。
『ミス・美穂川。 今回の結果については不問と致しますわ。 誇りなき勝利よりも、高潔なる敗北を尊ぶべき──それが、魔術師ならざる一般人の矜持ですもの。』
その言葉は、いつもの彼女からすれば驚く程穏やかで、そして理性的だった。
本来ならば、勝敗に厳格な彼女が見逃す筈のない結果。
それでも、相手が“魔術師ではない者”である以上、責を問うべきではないと判断したのだろう。
「……ありがとうございます、ルヴィアさん。」
恵茉は、どこか肩の力を抜いた声で応じる。
「アーチャーも、満足そうに消えていきましたし……不思議と、ちゃんと見送れた気がします。」
『ええ、貴女方その様子は目に浮かびますわ。』
紅茶を持つ手を止めた気配と共に、ルヴィアの声が僅かにに低くなる。
『ですが、ミス・美穂川。 聖杯戦争は、まだ終わっておりませんのよ。 残るは四陣営。』
空気が僅かに引き締まり、静かに、しかし容赦なく口を開く。
『一度足を踏み入れた以上、“非日常”という毒は決して抜けない。 日常という皮を一枚剥げば、その内側は常に死線である──そのことを、決して忘れないことでしてよ。』
それは、冷酷なまでに正しい現実だった。
「……はい。 ご忠告、ありがとうございます。 これからは、なるべくセイバーのマスター──私市くんと一緒に動く様にします。」
恵茉は短く頷き、堂々とした声で応えた。
『賢明ですわね。 では、ご機嫌よう。』
通話は静かに切れ、スマートフォンを下ろしたその瞬間、一竜がぽつりと呟く。
「……やっぱり、美穂川さんってすごいな。 四ヶ月も一緒にいたサーヴァントと別れたのに、そんなに落ち着いていられるなんて。」
恵茉は少しだけ困った様に笑い、やがて視線を少しだけ空へ逃がす。
「あはは……まぁね。 正門でロードバイクに乗って待ってたりとか、リビングでコーヒーを飲んでたりとか──そういうのが、もうないんだなって思うと……やっぱり寂しいよ。」
小さく息を吐くが、それでもすぐに言葉が紡がれる。
「でもさ。 アーチャー、めちゃくちゃ満足そうだった。 だから、しんみりするのもなんか違うなって。」
その口調は、どこまでも自然だった。
悲劇を語るでもなく、ただ思い出をなぞるように。
「──共に刃を交え、時を分かち合った相手が消えたこと。 それを寂しいと感じるのは、至極当然のことです。」
柔らかな声が、横から差し込む。
振り向けば、剣道部コーチのアルバイトを終えたセイバーが、静かに一礼して立っていた。
「セイバー、お疲れ。 オレもさ、あの飄々としてて頼れるダンディがいなくなったのは……やっぱ寂しいよ。」
「二人とも、ありがとね。 でも、アーチャーはしんみりされるのを嫌がるタイプだろうし、ランサーもそこを分かってるっぽいし──だから、思い出話くらいで丁度いいかなって。」
恵茉は少しだけ目を細めてくすっと笑い、自販機で買ったアイスをひと口齧った。
溶けかけた甘さが、夏の空気に溶ける。
「……強いな、美穂川さん。」
一竜がぽつりとセイバーに漏らす。
「ええ。 凛殿に通ずる様な──気高く、折れぬ芯を感じます。」
その言葉に、一竜も無言で同意する。
自分には、同じ様に振る舞える自信がない。
そんな思いが、胸の奥に静かに沈んでいた。
「……あ、そうだ。」
恵茉が、ふと思い出した様に顔を上げる。
「アーチャーのロードバイク、どうするか問題あるんだった。」
一竜が目を丸くする。
「え、あのめちゃくちゃ高いやつ?」
「そうそう。」
恵茉は軽く肩を竦めて、そのまま続けた。
「ランサーには“自分で走るからいい”って断られちゃってさ。 私市くん、いる?」
一竜は苦笑しながら、慌てて口を開いた。
「あっ、いやいやいや……! 今の自転車まだ一年くらいだし、流石にあんな代物は持て余すよ。」
「だよねぇ。」
恵茉も思わず吹き出しながらも、あっさり頷く。
あの別れ際の言葉──“必要そうな奴にでも、恵んでやってくれ”。 それは、今も彼女の中で“最後の約束”として残っていた。
そのやりとりを目にしたセイバーが、静かに口を開く。
「それならば──纐纈殿にお声掛けしてみては如何でしょう。 鍛えていらっしゃるあの方であれば、扱いきれるかと。」
「あ、セイバー! それいいな! 結構アクティブな纐纈さんなら絶対喜ぶって!」
一竜が左掌を右手で槌の様に叩き、即座に反応する。
「セイバー、ナイスアイディア! じゃぁ、早速ROPEでグループ作って声掛けてみるね。」
恵茉が即座にスマートフォンを取り出し、指先で軽やかに画面をなぞる。
こうして、アーチャーが遺した“最後の頼み”は、少しずつ次の誰かへと繋がろうとしていた。
それから、数十分後──
橙色のラインが走る電車の車内。
昼下がりの緩やかな揺れの中、纐纈とキャスターは並んで座席に腰を下ろしていた。
先のロードバイク譲渡の件で、恵茉から潮干まで来る様にメッセージが来ていた為である。
吊り革が僅かに揺れるのを眺めながら、纐纈がぽつりと呟いた。
「キャスター……アーチャーとランサーが本当に戦って、その結果……アーチャーがいなくなったって、まだ実感がなくてさ。」
キャスターも、窓の外を流れる景色に目を細めながら応える。
「ふふ、無理もないね。 どの時代であれ、“戦争”というものは、必ず何かを奪っていくのさ。 命だけじゃない。 関係、時間、積み上げた日常──その全てをね。」
軽く言った様でいて、経験者として語られたその言葉は妙に重かった。
これには、纐纈も頷くしかできなかった。
「……だよねぇ。 残りも四陣営だし……そろそろ、こっちも腹括らないといけないかもだよ。」
「ああ、その覚悟は悪くないよ。」
キャスターはくすりと笑いながら、纐纈にそう返した。
「それはそれとして、恵茉が“渡したいもの”って一体何だと思う?」
「んー……アーチャーと同じくコーヒー好きって言ってたし、コーヒーマシンとか?」
「ふふ、それはそれで洒落ているが……どうにも、それ以上の“何か”を感じるね。」
まだ、この時点では二人は知らない。
それが“遺されたもの”であり、そして“託されたもの”であることを。
やがて電車は潮干へと滑り込み、二人は屋敷町口から地上へと出た。
「纐纈さん! キャスター!」
声が弾む視線の先には、手を振る一竜と静かに立つセイバー、そして恵茉の姿があった。
「ご無沙汰しております。」
「纐纈さん、急な呼び出しなのに来てくれてありがとうございます。」
セイバーの一礼と、恵茉の柔らかな笑みが重なる。
「やっほー。 恵茉さん、思ってたより元気そうで安心したよ。」
「ふふ……流石だね、その面構えは。」
纐纈はほっとした様に肩を落とし、キャスターは静かに観察する様な視線を向けた。
「では、本題に入ってもいいかな?」
「あ、うん。 そうだね。」
恵茉は軽く手を叩き、そのまま言葉を繋げる。
「結論から言うと──」
少しだけ間を置いてから、隣に置かれたそれを示した。
「アーチャーが使ってたこのロードバイク、纐纈さんに譲ろうと思って。」
「……え? えぇっ!?」
纐纈の声が、高音を歌うシンガーの様に裏返る。
目の前にあるのは、明らかに高級と分かる一台。
フレームの艶、パーツの精度──素人目にも只者ではない。
「俺でいいの!? こんなすっごい結構なの!」
対照的に、纐纈の自転車は、十年以上乗り続けた代物である。
錆び、軋み、ところどころに限界の兆し。
だからこそ買い替えたいとは思っていたが──これはあまりにも、想定外すぎる。
「ふふ、士。 良かったじゃないか。」
キャスターが軽く、目を輝かせながらロードバイクを見回す纐纈の肩を優しく叩く。
「──とはいえ、恵茉。 その顔を見るに、“ただで”という訳ではなさそうだね?」
「流石キャスター、鋭いね。」
恵茉はこれまでの物寂しさがどこかへ消えていった様に、にやりと笑った。
「纐纈さん、定価百六十万円のところを──」
指を静かに三本立て、口が開かれる
「三万円でどうでしょう?」
「えぇっ!? 元値が高すぎる!? っていうか三万って破格すぎない!? でも、三万は三万で……う〜ん……。」
現実的な問題が、一気に押し寄せる。
生活費、収入、今後のやりくり──“安い”と“払える”は、まったく別の話だった。
「よし、恵茉。 その三万円、私が立て替えよう。」
その逡巡を見て、キャスターがあっさりと言った。
「おっ、キャスター!」
「あぁ。 丁度財布に入っているからね。」
軽く驚く恵茉と対照的に、キャスターはさらりとした声音で応えた。
彼女にとって、主婦が大根を買う様な感覚に近いのだろう。
「流石キャスター! プロ顔負けゲーマー・Pyromindだけあるね。 交渉成立!」
「えぇっ!? キャスターいいの!? ありがとう!!」
「ふふふ。 士には世話になっているし──これは“先行投資”だよ。 寧ろ、それを考えたら安いくらいさ。」
キャスターは片目を細め、纐纈(くくり)の肩に手を置きながら口を開いた。
「纐纈さん、よかったですね。」
二人の楽しそうな姿を見ながら、一竜が穏やかに言う。
「うん! これで生活も運動も、めちゃくちゃ変わりそうだよ。 ありがとう、恵茉さん。」
「いえいえ。 アーチャーとの約束を守れたんで、こっちこそ助かりました。」
恵茉は首を振り、右の掌を纐纈へ向けた。
その言葉に、一竜とセイバーが静かに頷いた。
「ふふふ。 士、キミって奴は……。」
子供が新しいおもちゃに喜ぶ様な姿を見せた纐纈を、親の様な気持ちでキャスターが見守って呟いた。
それから纐纈は、もう待ちきれないといった様子でサドルに跨る。
「……はてさて、早速乗って帰るよ! キャスター、霊体化お願い!」
「もちろん。」
キャスターの姿が、空気に溶ける様に消える。
「恵茉、それとセイバーに一竜。 私からも感謝するよ。」
「二人共、お気を付けて!」
一竜の声を背に、纐纈は新しい風を切り裂く様に、勢いよくペダルを踏み込んだ。
やがて国道に差し掛かり、走りが安定した頃。
纐纈は骨伝導イヤホンで通話をしている様に装い、キャスターと会話をしていた。
「随分と上機嫌だね、士。」
「そりゃね。 でもさ……。」
纐纈は笑顔で応えるが、そのまま眉根だけが下がり出す。
「さっきみたいに、みんなでのんびり話せる時間がこの先なくなるかもしれないって思うと──ちょっと考えたくなくなっちゃうよ。」
「ふふ、その気持ちは理解できるけど、戦争は避けられないよ。」
キャスターの声は穏やかだったが、本質を突いていた。
「それでも私は、セイバーと刃を交えたいと思っているけどね。」
「……ははっ。 それ、完全にアーチャーとランサーと同じこと言ってるよ。」
「そうかもしれないね。」
二人は笑い合いながら、今の状況について語り合った。
軽やかな風が、二人の間を抜けていく。
「それより──ライダー陣営、まだ全然分かんないよね。 ライダーともあの飲みの時くらいしか接点ないし、マスターもどんな人か知らないし。」
「確かに。」
キャスターは本の僅かに声色を変えた。
その声音には、微かな予感が混じる。
「だが、案外そう遠くない内に“出会う”ことになるかもしれないよ。」
その言葉の意味を、まだ二人は知らない。
それでも新たな速度を手に入れた纐纈は、軽やかに国道を走り抜けていく。
その先に待つものが、どれ程鋭い刃であるかも知らぬままに。
──一方、昨夜の決闘を終えた亜梨沙は、久方振りの“何も起きていない時間”の中に身を置いていた。
仕事のシフトは休みであり、昼過ぎの淡い光が差し込む自室で、彼女はベッドに身体を預けている。
全身の疲労が抜けきらないが、それ以上に心の奥に残る余韻が、彼女をまだ戦場に繋ぎ止めていた。
耳元のスマートフォンから、軽やかな声が流れる。
『そっかぁ。 複雑な気持ちもあるだろうけど……とりあえず勝ち残れてよかったねぇ、亜梨沙ちゃん。』
その声の主は、メルヴィンだった。
彼もまた体調が優れないのか、どこか横になっている気配がある。
「……はい。 メルヴィンさんが言ってくれた“自分を信じる”って言葉……あれがなかったら、きっと何もできませんでした。」
亜梨沙は、ゆっくりと息を吐く様に話した。
『いやいや、私は何もしてないよ。 ただ、背中をちょっと押しただけさ。』
軽い調子のまま、しかし言葉は確かに核心を突いていた。
『でもまぁ──その動きができたなら、もう充分だよ。 いざとなれば、どんな相手でも戦える素質はあるってことだからねぇ。』
「……そうだと、いいんですけど。」
眉根を下げた亜梨沙は、視線を天井へ向ける。
「まだ……ライダーはともかく、そのマスターの人のことも、全然分からなくて……。」
『ああ、あそこね。』
メルヴィンの声が、ほんの少しだけ曇る。
『正直、こちら側でも把握しきれてない。 監督役の魔術師がまた厄介でね。 情報を握らせないことに関しては一級品だ。』
その言葉通り、化野の存在は霧の中にある。
見えない、掴めない、だが確かにいる。
「……そうなんですね。」
亜梨沙は小さく頷き、確かに不安が大きくなっているが──
「でも、やっぱりランサーと……自分を信じるしかないですよね。」
『うん、その通り。 見えないけど、いい顔していると思うよ、今。』
顔は青ざめながらも、どこか満足げな声が亜梨沙の耳に届いた。
『それじゃ、私はこの辺で。 ちょっと今日は身体が重くてね。』
「はい。 ありがとうございました。」
通話が切れ、部屋に静寂が戻ったその直後──
「よぉ、亜梨沙!」
リビングの方から、明るい声が響いた。
振り向けば、ランサーが姿を現している。
シャワー上がりなのか、髪は僅かに濡れ、全身からは運動後の清々しい空気が漂っていた。
「お帰り、ランサー。」
亜梨沙は、笑顔でベッドから身体を起こす。
「さっきまでメルヴィンさんと話してたの。 昨日のこと、報告してた。」
「おう、そうか! それに、ちゃんと休めたみたいで何よりだぜ!」
ランサーは満足げに笑う。
少し前の彼女なら、昨日の出来事をこんな風に“言葉にする”ことすらできなかったかもしれない。
それだけ変わってきていると、ランサーも思っていたのであろう。
「そういやよ。」
ランサーが腕を組みながら、思い出した様に言う。
「アーチャーの自転車の件、どうなったんだ?」
「あっ。 それね、もう解決したみたい。 SMOKEさんに譲ったって、恵茉ちゃんがROPEで教えてくれた。」
「おぉっ、そいつはいいな!」
ランサーの顔がぱっと明るくなる。
「知ってる奴に渡るなら、アーチャーも安心だろうしな!」
その言葉には、偽りのない安堵があった。
友として、そして敵として戦い、自らの手で見送った相手。
その大事にしていたものだからこそ、“その後”が気になっていたのだろう。
「……なぁ。 それもそれとして、コーヒーなんてあったっけ?」
「えっ?」
話を切り替えたランサーの問いに、亜梨沙が目を瞬かせる。
「インスタントならあるけど……それでいいの?」
「ああ、飲めりゃ充分だ!」
迷いのない返答だった。
あの決闘前に交わした、紙コップの一杯の味が、まだ舌の奥に残っている。
それは単なる飲み物ではなく、一つの記憶として、彼の中に刻まれていた。
「じゃあ、すぐ淹れるね。」
電気ケトルのスイッチが入り、ほどなくして湯が沸く。
カップに粉を落とし、湯を注ぐ。
立ち上る香りは、どこか淡く、決して本格的とは言えない。
「ランサー、どうぞ。」
「おう、サンキュー!」
ランサーはカップを受け取り、ひと口静かに啜った。
「……んー。」
少しだけ眉を顰め、苦笑いしながら口を開く。
「なんつーか、薄いな。 深みがねぇっていうか……昨日のやつの方が、断然美味かった気がする。」
「あはは、インスタントだからそれはそうだよ。 アーチャー、豆からかなり拘ってたみたいだし。」
亜梨沙も苦笑しながら、ランサーの応えに言葉を返した。
──だが、ランサーはゆっくりと味わう様に、もう一度カップを口に運ぶ。
「……でもよぉ、これはこれでいいな。」
「え?」
亜梨沙が目を丸くして、ランサーを見据える。
「……亜梨沙が淹れてくれたからかもな。」
作ったわけでも、飾ったわけでもない──あまりにも自然な言葉だった。
ただ、そう思ったから口にしただけのまっすぐな一言である。
「……っ! な、なんか……そういうの、ちょっと恥ずかしいよ……。」
「はっはっは! いいじゃねぇか! そういうのも含めてだろ!」
亜梨沙の頬が僅かに赤くなる中、ランサーが豪快に笑いながら彼女の肩をポンポンと叩いた。
「──まっ、次の戦いまではこうやってゆっくり過ごそうぜ。」
「……うん。」
カップを軽く掲げながらそう語るランサーに、亜梨沙も小さく頷く。
「まだセイバーにキャスター……それにライダーもいるし、油断できないよね。」
その言葉で、空気がほんの少しだけ引き締まる。
穏やかな時間は、飽くまで“合間”に過ぎない。
戦いはまだ終わっていないが、今のこの瞬間だけは、大事にしたい。
同じ屋根の下で静かな時間を分かち合いながら、二人は次の戦いへ向けて、それぞれの内に火を灯し続けていた。
──その一方で。
残る陣営の中でも、一際異質な静けさを保ち続けていた男──轡水は、今日もまた変わらぬ日常の中で身を置いていた。
カーテンは閉ざされ、外界の光を拒絶したタワーマンションの一室、青白いディスプレイの光だけが、部屋の輪郭を曖昧に浮かび上がらせている。
並ぶモニターには、刻一刻と変動する株価とその波を、轡水は獣の様な鋭い眼差しで追い続けていた。
合間には日々書き連ねられているドキュメント打ち込みというもう一つの作業。
それらすべてが、彼の中では同一線上にあった。
利益も、思想も、選別も、すべては“選ぶ”という一点に収束する。
──その時、扉の開く音が静寂に小さく亀裂を入れた。
「京介。 ただ今戻ったぞ。」
穏やかでありながら、どこか堂々としたライダーの声だった。
「“わらび餅”とやらを手土産に持ってきた。 少しは手を休めてもよいのではないか?」
外の空気を纏ったまま、老舗和菓子店のロゴが入った袋を軽く掲げる。
「……ちっ。 よりにもよって、粉の散るものを選ぶか。 ……テーブルに置いておけ。 今行く。」
舌打ちを交えつつ、モニターから視線を外さぬまま、淡々と操作を続け、全ポジションを一括で解消した。
まるで呼吸を止める様な一瞬の静止の後、轡水はようやく椅子から立ち上がり、テーブルへと歩み寄る。
「……そう言えば、情報共有だ。」
わらび餅を一口無造作に口へ運びながら、轡水が口を開く。
「化野から通話で聞いた。 残りは……僕らを含めて四陣営らしい。」
「……そうか。 長い様で、短いものだな。」
その言葉には、戦場を幾度も越えてきた者の実感が滲んでいた。
「そろそろ動く時期だ。 ライダー、お前も覚悟はしておけよ。」
対し、感情を削ぎ落とした声で轡水が告げる。
それは確認ではないく、宣告だった。
──だが、ライダーはその奥にある“揺らぎ”を見逃さなかった。
氷の様な声の奥に、僅かに混じる昂り。
一拍見据えた後、ライダーが静かに口を開く。
「京介よ。ひとつ、尋ねてもよいか。」
「……何だ。」
「其方の掲げる“理想”、そろそろ聞かせ貰えぬか?」
沈黙が部屋の中を包み込んだのち──
「……ふん。」
鼻を鳴らしながら、轡水は背を向けた。
デスクへと戻り、キーボードを叩き、モニターに映し出されたのは──
日々ドキュメントへ積み上げられてきた、“思想”の断片だった。
「ざっと読め。」
短い命令のあと、ライダーは静かに視線を落とす。
【この世の流れを阻害する“弱者”】
【要旨】
・思考停止した個体
・社会適応能力の低い個体
・過度な保護に依存する個体
──これらは、社会全体の効率を著しく損なう。
【解決案】
・自然淘汰に準じた社会的選別機構の導入
・定期的な“排除”による最適化
・高能力者の純度維持
──最終的に、“強者のみが残る社会構造”の構築
それ以上、否定も肯定も言葉は出さなかった。
ただ一つ──“理解”だけがあった。
四ヶ月も同じ屋根の下で過ごした時間が、この異質な思想を既に“知っているもの”へと変えていた。
「現代は甘すぎる。」
轡水は、まるで駅前の演説の様に淡々と続ける。
「公平に寄りすぎた結果、全体の質が落ちている。 このままでは、いずれ他国に呑まれる。」
もう一つわらび餅を口へ運び、飲み込んだすぐ後にまた言葉を紡いだ。
「だからこそ、淘汰が必要だ。 聖杯があれば、それは実現可能になる。 これは理想じゃない。“設計”だ。」
狂気ではない──だからこそ、厄介だった。
彼の話を大人しく聞いていたライダーが、静かに口を開く。
「……京介。 その“弱者”とやらの境界──果たして、明確に引けるものなのか?」
「……あぁ?」
「紙一重ではないのか? 状況ひとつで、誰しもが──其方でさえ、そこへ落ち得るのではないか。」
それは否定ではなく、覚悟の確認と純粋な問いだった。
王として、多くを見てきた者だからこその。
「……くだらないな。 そんなもの、当然だろう。」
すぐ様帰ってきたのは言葉だけでなく、真っ直ぐな視線だった。
「だからこそ、仕組みに従う。 僕自身がそこに落ちるなら──その時は排除されればいい。」
一切の躊躇なく、淡々と言葉を並べた。
「尤も、僕が“弱者側”に回ることなど、老いぼれない限りあり得ないがな。」
その言葉には、傲慢ではなく“前提”としての確信の響きがあった。
「……そうか。 私の知る限り、その種の思想が長く栄えた例はない。 だが……それもまた、一つの道か。」
静かな声で放たれた言葉以上のものは、何もなかった。
「……ふん。」
短い反応があったっきり、会話は途切れた。
昼であるにも関わらず、夜の様に沈んだ暗い部屋の中で──二人はただ、黙々とわらび餅を口に運ぶ。
その場に流れる空気は、どこまでも冷たい。
──こうして、残る四陣営のそれぞれの思惑は静かに交錯し始めていた。
やがて訪れるであろう衝突を前にして。
その先に待つ“現実の重さ”を、彼らはまだ知らない──