ロンドンの時計塔が、午後八時を示した──

魔術協会の中枢たるその塔には、夜という概念すら拒むかの様に、未だ無数の灯りが点っていた。

その一角、本日の執務と研究を終えたロード・バリュエレータは、ようやく退出の支度へと取り掛かっていた。

机上に積み上げられた書類を一瞥し、確認を終えた彼女は、最新式の携帯音楽プレイヤーを手に取る。

「さて……この時が今の一番の楽しみだ。」

お気に入りのロックミュージックでも流しながら帰ろう、そう思い端末を操作しようとした、その時だった。

──ブゥン ブゥン

机の上に置かれたスマートフォンが、低い振動音を響かせ、ロード・バリュエレータは、僅かに肩を竦めた。

「……やれやれ。 やはり管理者というものは、休む暇すら与えられないらしいな。」

思えば、この聖杯戦争が始まってからというもの、彼女の執務量は明らかに増えていた。

聖杯戦争の開催宣言、触媒の調達、各魔術師への定時確認、さらにはシリルによるルール違反への対応とその仲介まで。

本来ならば一つ一つでも相応の労力を要する仕事だというのに、それらが一つの案件として同時進行している。

しかも今回の聖杯戦争は、従来のものとはあまりにも勝手が違う。

それ故に、彼女の肩へと積み重なる仕事もまた、常識の範疇を容易く飛び越えていた。

「さて……今度は何だ?」

半ば諦めた様にスマートフォンを手に取ると、表示された送り主は、創造科(バリュエ)に所属する魔術師だった。

現在、日本へお忍びで派遣され、聖杯そのものの調査に派遣された人物である。

「……聖杯の調査結果、か。」

画面に表示されていたのは、英語による簡潔な報告文だった。

『ロード・バリュエレータ。
石神区・曙が丘公園にて、聖杯によるものと思しき反応を確認しました。』

『しかし、完全な形成には今後二、三日程度を要する見込みです。
これは聖杯の欠片そのものが極めて小さいこと、そして実質的な触媒として利用されたキレイ・コトミネが、アインツベルンのホムンクルスとは異なり、正規の聖杯の器となり得ないこと。
以上の二点が主な要因と推測されます。』

『以上、現時点における調査結果です。
残留陣営を監督している魔術師各位への共有を、よろしくお願いいたします。』

「…………。」

最後まで読み終えたロード・バリュエレータは、しばし無言だったが、口元がゆっくりと歪む。

それは喜びとも嘲笑ともつかなず、ただ長らく待ち続けていた何かが、ようやく動き始めたことを確信した者の笑みだった。

「そうか……。」

窓の外には、ロンドンの夜景が魔術師達の世界とは無関係に静かに瞬いている。

「いよいよ、この聖杯戦争新制度にも……一区切りがつくというわけか。」

今回の聖杯戦争を形作った異常な条件。

本来ならば正規の器となるべきアインツベルンのホムンクルスではなく、過去の聖杯戦争において深く関わった人物──言峰綺礼の遺体。

そして、それに呼応する様に現れた聖杯の欠片。

過去の聖杯戦争が残した因子と、今回の異質な制度。

それらが偶然なのか、あるいは必然なのか、少なくとも今の段階で断言できる者はいない。

だが、聖杯そのものが、いよいよ形を成そうとしていることだけは確かな事実だった。

「さて……早いところ、三人には共有しておくか。」

そう言いながら、ロード・バリュエレータはスマートフォンを手に取る。

「何より、オレは最新機種でロックを聴く時間を一分でも長く確保したいんでね。」

皮肉めいた笑みを浮かべながら、彼女は慣れた指捌きで端末を操作する。

イギリス製のビジネスチャットアプリを開き、ロード・エルメロイII世、メルヴィン、そして化野菱理へ、先程の報告を必要な情報だけに整理した上で送信していく。

ただし、凛の名のみそこにないのは、単なる意地悪ではない。

「……遠坂に直接共有するのは、ロード・エルメロイII世に任せるとしよう。」

彼女は知っている。

凛が、魔術師としては優秀でありながら、電子機器という文明の利器に対して、恐ろしい程相性が悪いことを。

下手をすれば、連絡を確認するだけで端末そのものを謎の爆発等で破壊しかねない。

それは冗談ではなく、充分に現実的な危機管理上の判断だった。

故にロード・エルメロイII世へのメッセージにだけ、最後の一文が加えられていた。

『追伸 個別で遠坂にも直接共有せよ。』

「これでよし。」

送信完了の表示を確認すると、ロード・バリュエレータはようやくスマートフォンを机へ置き、ふっと目を細めた。

「ふふふ……ロード・エルメロイII世。 君なら、ここからどう動くかな?」

その声には、ほんの僅かな愉悦が混じっていた。

それを最後に、彼女はイヤホンを耳へ差し込んだ。

軽快なロックミュージックが流れ始め、つい先程まで山のように積まれていた仕事を終えた者の解放感が見えていた。

だが、その顔に浮かんでいたのは、音楽に酔う者の柔らかな表情ではなかった。

何かを待ち構える者の不敵な笑み──それだけだった。

ロード・バリュエレータは、誰もいない執務室を後にし、扉が閉じる。

その向こうでは、時計塔の歯車が今日もまた、魔術師達の知らぬところで静かに回り続けていた。

そうしている頃も日本では、聖杯戦争の終幕を告げる器が、今まさに形を成そうとしている。

残された時間は、二、三日──それは決戦を待つには、あまりにも短い。

いよいよ、この特異な聖杯戦争の終わりが静かに、だが確実に近づき始めていた。

同じ頃、日本では午前四時と五時の間、夜と朝の境界がまだ曖昧な時間帯──

都内某所のホテルの一室では、ロード・エルメロイII世が相変わらず夜っぴて机へ齧りつく様にしていた。

この聖杯戦争新制度を廃止へ導く為の情報整理の作業は、最早仕事という言葉だけでは片付けられない領域へ達していた。

資料を読み、記録を照合し、各陣営の行動を整理する。

そして、その度に一つの結論へ辿り着く。

あと一つだけ、決定的なピースが足りない。

「…………。」

ロード・エルメロイII世は、灰皿へ視線を落とした。

そこには、幾本もの葉巻の吸い殻が積み重なっている。

その数は、彼がこの問題をどれだけ長く睨み続けているかを、無言のまま物語っていた。

最大の手掛かりとなるのは、轡水(ひすい)の思想であるが、現状では彼の目立った行動を掴み切れていない。

何を考えているのか、何を目的としているのか、そして、今回の聖杯戦争そのものに対して、どの様な思想を抱いているのか。

そこへ届かない限り、新制度を廃止するための最後の一手が完成しない。

「──また朝陽が昇ってしまったか。」

窓の向こうでは、夜の闇を薄く押し退ける様に、東の空が僅かに白み始めていた。

「仕方ない、少し休むか。」

これ以上無理をして倒れでもすれば、グレイから説教を受ける。

それだけならまだいいが、ライネスからも嫌味を飛ばされることになる。

何より、その二人から同時に心配されるという、あまりにも面倒な未来が容易に想像できた。

自分の身体より先に、その光景を思い浮かべた結果、ロード・エルメロイII世は、ようやく休息を決意した。

この一本を吸い終えたら横になろう──そう思いながら葉巻を口元へ運ぶんだ、その瞬間。

──ピロン。

無情にも、机上のノートPCが通知音を鳴らした。

「……むっ。」

数秒の沈黙の後、画面に表示された送り主を確認する。

「ロード・バリュエレータか。 まったく……よりによって今休もうとしたところを、間の悪い奴だ。」

口ではそう零しながらも、彼女からの連絡がこの時間に届いた意味は理解していた。

重大な内容である可能性が高い。

それを察したロード・エルメロイII世は、疲労で重くなった瞼を僅かに細め、通知を開いた。

そこに記されていたのは、今回の聖杯戦争に残留する監督役たちへ向けた簡潔な通達だった。

『この度の聖杯戦争に於ける残留者諸君へ告げる。
調査員によって、石神区・曙が丘公園にて、聖杯の反応が確認された。』

『ただし、非常に特殊なケースによる聖杯である為、完全な形成には二、三日を要する見込みとのことである。
長きに渡る監督となったが、最後まで各々が担当する陣営への監督責務を果たして貰いたい。』

「…………くそっ。 タイムリミットが近付きつつあるか。」

ロード・エルメロイII世は、しばし画面を見つめ、短く吐き捨てたと同時に、葉巻の灰がぽろりと灰皿へ落ちた。

この新制度による聖杯戦争が、正式に一つの”成功例”として成立してしまえば、今回の制度が終わったとしても、それを前例として利用しようとする者が現れるかもしれない。

第二の新制度、あるいはそれに準ずる新たな聖杯戦争が再び行われる可能性を、完全には否定できない。

だからこそ、時間がない。

「…………。」

一本の葉巻を吸い終えたが、それでも休む気にはなれなかった。

寧ろ、彼の手は自然と次の一本へ伸ばし、火を点ける。

「メルヴィンの奴にも話を入れておくか。 どうせあいつなら、ビデオ通話で叩き起こせばいい。」

煙を吐き出しながら、ロード・エルメロイII世はノートPCを操作し、ビデオ通話アプリを起動する。

メルヴィンのアカウントを選択し、通話を開始するも、当然ながらすぐには出ない。

呼び出し音だけが静まり返った部屋へ響き一分、二分、三分近く──

「…………。」

ロード・エルメロイII世が吐き出した煙と溜息が、ほとんど同じタイミングで天井へ消えていったその時、ようやく画面が繋がった。

『ゲホッ……ゲホッ……。 やぁ……おはよう……ウェイバー……。』

画面に映ったメルヴィンの顔は見るからに青ざめており、今にもまた吐血しそうに咳き込んでいた。

『君が……こんな非常識な時間に……呼び出すなんて……。 洒落にならないことが……起こったのかな……?』

ただでさえ病弱な身体に、寝起きという条件まで重なり、声には見るからに覇気がない。

それでも、その口元には薄い笑みが浮かんでいた。

どうやら、ただ事ではないことだけは察している様である。

「あぁ、メルヴィン。 明け方に悪いが、そういうことだ。 お前のところにも、ロード・バリュエレータからの通達が届いている筈だ。」

『えーっと……。』

メルヴィンは眠そうに目を擦りながら、別の端末を確認する。

『……確かに、あったね。 いよいよ……この長くて……面倒な戦争にも……終止符が打たれる……訳だね。』

その表情には、ようやく母国へ戻り、調律の仕事へ復帰できるという安堵が滲んでいた。

「あぁ。お前にとっては、そうだろうな。 だが、私にとっては鬼気迫る時でもある。」

『……だろうね。』

苦い顔をするロード・エルメロイII世の様子に、メルヴィンはさらに笑って反応した。

「この新制度を廃止へ持ち込むための一手を掴む前に、聖杯が完成してしまえば──今回の制度が一つの成功例として扱われる可能性がある。」

彼の言葉に、メルヴィンは小さく吹き出した。

『ふふっ……。いつも切羽詰まっているような……君らしい考え方だね。』

「笑い事じゃない。」

『分かってるさ。』

メルヴィンはそう言いながら増血剤を含み、手元の飲み物を口にする。

『ところで……君には……その通達を遠坂さんへ……直接伝える責務もあるんだろう? 彼女が……機械を扱える訳がないしね。』

ロード・エルメロイII世は、僅かに眉間へ皺を寄せた。

「あぁ、その通りだ。 それもあるが、遠坂は今頃、浜松のどこかでのんびり夢の中にいるだろう。」

『……浜松? 何故また……そんな悠長なことを……?』

メルヴィンの眠そうだった目が僅かに開き、ロード・エルメロイII世は半ば呆れた様子で説明を続けた。

「彼女が監督している陣営へ、リフレッシュの為の小旅行を提案したらしい。 だが、あいつはスマートフォンすらまともに使いこなせない。 そこで、お忍びで様子を見に行っているそうだ。」

『なるほど……。 まぁ……彼女らしいと言えば……彼女らしいね。』

メルヴィンは、納得した様に頷いた。

「私にしか事前報告をしていなかったからな。 まったく、余計な仕事まで増やしてくれる。」

『ははっ……。 ゲホッ……ゲホッ……。』

メルヴィンは苦笑しながら、再び咳き込んだ。

『まぁ……我々は我々で……それぞれの陣営には、もう少し……良識的な時間に共有しようか。』

「そうだな。」

『私も……もう一度寝なければ……文字通り死んでしまうからね。』

「それには同意する。」

ロード・エルメロイII世は、ようやく椅子へ深く身体を預けた。

「私からは以上だ。 改めて、こんな朝早くに悪かったな。 後日、また反対派で集まって話し合う。 その時には改めて呼ぶ。」

『オッケー。 では……お休み。 君も……よーく休んでおけよ。』

「…………あぁ。」

メルヴィンが僅かに笑いながら手を振り、通話が切れる。

画面からメルヴィンの姿が消え、部屋には再び静寂が戻った。

残ったのは、葉巻の煙と、夜明け前の薄暗い空気だけだった。

「…………厄介なことになったな。 ましてや、聖杯の完成が新制度の成功事例として確立されることにもなり兼ねん。」

二日三日だけしかないチャンスに、彼も頭を抱え始める。

「どんなに遅くても、三日後までには全てのピースを揃え、ロード・バリュエレータへ直談判する。」

その決意だけは、疲労に霞むことがなかった。

ロード・エルメロイII世は、買い溜めしてあった飲食物へ手を伸ばす。

これから数時間後には、纐纈へ聖杯についての連絡を取らなければならない。

その後には、ようやく睡眠を取る必要もある。

ならば今は、その時の為に少しでも身体を休める為の体力を残しておくしかない。

長きに渡った聖杯戦争、そしてそれを終わらせる為に奔走してきた日々、その双方がいよいよ終幕へ向かって動き始めている。

だからこそ、その終わりを”最悪の形”にしない為に、ロード・エルメロイII世は、再び目の前の資料へ向き直った。

朝陽はもうすぐ昇り切り、この聖杯戦争に残された時間もまた、刻一刻と減っている。

残された猶予は三日という事実だけが、静かに彼の胸へと突き刺さっていた──