同じく刻は遡り、一竜とセイバーの邂逅から四日前。
例にもれず、轡水の住まう一室の中で、彼によるサーヴァント召喚の儀式は、化野菱理と共に滞りなく進行していた。
魔法陣が眩い光を放ち、その中心には──
二メートルを超す屈強な体躯。白髪混じりの短髪に、深く刻まれた皺を持つ初老の男が、堂々たる佇まいで槍を携えて立っていた。
「…。」
轡水は動じることなく、鋭い眼差しでその男を静かに見据えていた。
「これにて、召喚は成功しましたね。」
化野が、落ち着いた声で轡水に告げる。
「…見れば分かる。」
その返答は、まるで氷の刃の様に冷たく切り返された。
やがて、魔法陣の中心に立つ男が、ゆるやかに瞼を開き──
「……ふむ。 其方が、我がマスターか」
男の開かれた口から聞こえた声には、威厳と同時に、深海のような包容力が滲んでいた。
だが、轡水の瞳に宿るのは、冷ややかな光。
相手を見上げることなく、寧ろ睨みつける様に問いかけた。
「…爺さんか。 もっと若い姿で出ようと思わなかったのか?」
挑発とも取れるその言葉は、まさしく鋭く磨き上げられた刃のごとし。
だが、男は小さく笑みを浮かべるのみ。
「そう申すか。 しかし、その"爺さん"はこう見えて数多の戦場を駆け抜けて来た。 このライダーの経験もまた、戦においては大いなる武器となろう。」
自らを騎兵と称するその男は、若造の挑発など意にも介さぬといった風情で、轡水に堂々たる態度を崩さなかった。
「…ふんっ。」
つまらなそうに鼻を鳴らし、轡水は顔をしかめる。
「マスターよ。 其方の名を伺おう。」
ライダーは、重みのある静かな声で、轡水の名を尋ねた。
「…僕は轡水京介だ。 好きに呼べ。」
轡水は素っ気なくそう名乗り、すぐさま化野の方へと視線を向けた。
「化野。 今後の連携の為にも連絡先を寄越せ。」
それは命令とも言える口調だったが──
「えぇ。 言われずとも、そのつもりで御座います。 ROPEでよろしいでしょうか?」
化野は、着物の袖から取り出したスマートフォンを操作し、ROPEのアカウント画面を提示する。
──余談だが、これで魔術師達の中で、ROPEを扱えないのはもはや遠坂凛のみとなった。
「それでいい。」
轡水は無感情に頷き、そのまま申請を受諾した。
化野のスマートフォンにも、“友達”として彼の名が登録されたことが確認される。
「ありがとうございます。以後、ご不明な点はROPEで承ります。」
化野は轡水にそう伝え、まるで仕込まれた道具のように、振袖の袖の中に、自身のスマートフォンをしまった。
「では、私はこれにて失礼いたします。──この聖杯戦争で、轡水様ご自身の“理想”を、どうか大切になさって挑んでくださいね。」
別れ際に放たれたその言葉には、どこか意味深な響きがあった。
「……?」
しかし轡水は、その真意を深く考えようともせず、ただ彼女の背中を鋭い目で追うだけだった。
化野が部屋を去っていくのを見届けた後、幾ばくかの時が流れる。
「おい、ライダー。 お前の素性はもう知ってる。 王なんだってな?」
轡水がふいに口を開き、彼の真名に触れる情報を提示した。
その通り、ライダーは幾多の戦場を制し、ついには“王”と呼ばれる地位へと辿り着いた英雄である。
「確かに、私は王と呼ばれていた。 しかし、聖杯戦争に於いては、己の身分など何の価値も持たぬ。 只、目の前の相手と鬩ぎ合い、勝ち抜くのみ。 私は──只の一戦士に過ぎぬ…。」
その言葉には、王としての矜持ではなく、戦士としての覚悟が込められていた。
「時に京介よ。 先の魔術師の者も口にしていたが、其方にも何やら理想というものがある様だな? その理想とやらについては聞かせて貰えるか?」
ライダーは、化野が含みを持たせて語った轡水の"理想"について強い興味を抱いていた様だった。
「…答える義理はない。 くだらないことを聞くな。」
轡水は、またしても磨きたての刃物の様な、冷たくかつ鋭い言葉をライダーに言い放った。
「ふむ…。 そうか。」
ライダーは、それ以上問うことを諦めたのか、わずかに眉を動かすと、それきり何も言わなくなった。
こうしてこの日、二人の間には、静寂だけが満ちていった。
それから四日後である今。
時刻は正午を回っていたが、高層階の一室──轡水の部屋にはカーテンが閉ざされ、照明ひとつ灯っていない。
唯一、ノートパソコンのモニターが室内を白く照らし、相も変わらず不機嫌そうな轡水の顔を照らしていた。
彼の日銭稼ぎの一環であるデイトレードもそうだが、その合間に何やらドキュメントを淡々と打ち込でいた。
そしてその隣、フローリングに胡座をかいて座るのはライダー。
彼は、静かに己の槍の手入れに勤しんでいた。
カタカタと淡々と打たれるキーボードの音と、金属と砥石が擦れる音だけが、静寂な室内に響く中──
轡水がライダーを一瞥し始めた。
「……毎日、飽きないな。」
その一言は、ライダーが日課の様に繰り返す槍の手入れを指していた。
「うむ。 この槍こそが、戦場を共に駆ける相棒故にな。 些細な整備も、やがて勝利を引き寄せる一手となるやもしれぬ。」
長き戦を生き抜いてきた者として、彼は武器に対する敬意を欠かさず、刃に指を滑らせ、歪みも汚れも許さず、ただ静かに丁寧に研ぎ続ける。
「…そうか。」
それでも轡水は、それに興味を示すでもなく、淡白にそう返すのみだった。
やがて槍の手入れを終えたライダーは、それを壁に立てかけると、轡水へと声を掛ける。
「京介、この世界を見て回りたいのだが、よいか?」
轡水は、キーボードを打つ手を止め、怪訝そうに再びライダーに顔を向けた。
「あぁ?」
その目は、訝しげな色を宿しながら、ライダーの真意を探るように細められる。
「私は、かつて自らの足で多くの民の姿を見てきた。 この時代、この立場であっても、改めて今の民の姿をこの目に映しておきたいのだ。」
それは、王としての矜持──
民を見ることを怠らぬ意志の現れだった。
「…ふん。」
轡水は小さく鼻を鳴らし、机の横に置かれた紙袋を乱雑にライダーへ手渡した。
中には、現代の一般人が身につける様なニットセーターとチノパンが入っている。
「…そんなこともあろうかと、擬態用にアマゾネス・ドットコムで適当な衣類を注文しておいた。 中身に文句は言うなよ?」
ライダーは、その轡水が注文した壮年向けニットセーターを広げ、静かに頷いた。
「ほう、これが現代の服か。」
やがて彼は、ドレスシャツとベストを脱ぎ、現代の装いに着替え終える。
「…ふむ。 悪くない。」
その姿は、威厳のあるクラシカルなドレスシャツにベスト姿と違い、街中にいても違和感のない、落ち着いた壮年紳士へと変貌していた。
ライダーも、その服装を気に入っている様だ。
「おいおい、仮にも王だろ? そんな服装でいいのか?」
轡水の口からは、皮肉とも揶揄とも取れる言葉が投げられた。
「寧ろこれがいい。王であるからこそ、民と同じ姿に身を包み、共に生きる者として向き合いたい。」
ライダーは一切の動揺も見せず、むしろ誇らしげに微笑みを浮かべ、ゆっくりと頷く。
「…ふん。」
轡水は、またお決まりのつまらなそうな表情で鼻を鳴らし、再び目線をPCへ向け、無言でキーボードを叩き始めた。
「では──行って参る。」
その一言を残し、ライダーは静かに部屋を後にした。
陽光が燦々と降り注ぐ昼下がり。
ライダーは真直ぐな姿勢で後ろ手を組み、街中をゆっくりと歩く。
時折、何かに目を留めては足を止め、周囲を興味深く観察していた。
──そんな折。
ボールが、道端で遊ぶ子供たちの元から転がってくる。
「おじさーん、すいませーん! ボール投げてくださーい!」
子供たちの元気な声に応え、ライダーは軽やかにそのボールを拾い上げる。
軽く放られたボールは、綺麗な弧を描いて、正確に子供達の元へと運ばれる。
「ありがとうございます!」
笑顔で礼を言う子供達に、ライダーは柔らかな微笑を浮かべ、再び歩みを進めた。
更に歩いた先の道端では、信号待ちの老女の荷物を持ち、横断歩道を共に渡る若者の姿。
更には、白杖を持つ人が通り易い様に、自然と道を開ける通行人達。
「(…この時代にも、良き民がいるのだな。)」
ライダーは穏やかな表情で目を細め、その善意のある人々を見守っていた。
だが、世に善良な者ばかりとは限らない。
次に彼の目に映ったのは、スマートフォンを見ながら歩き、他人にぶつかりそうになる若者。
その若者に対し、怒声を浴びせる中年。
その光景を面白がって撮影する別の若者たち──
ライダーは、そう言った不届きな人間達に些か眉をひそめるが、深く考えることはしなかった。
そういう者もまた民であり、全てを善と悪で裁てぬと、すでに彼は知っているのだろう。
やがて──
ライダーはふと、道沿いに掲げられた”ハワイ料理店”の看板に目を奪われた。
「…ふむ。 懐かしいな。」
そう呟き、しばし看板を眺めると──
「(…いずれ寄ってみるとしよう。)」
ライダーはそう思い残し、静かにまた歩み始める。
更に進んだその先の旅行代理店前で、パンフレットラックに目を留める。
ラックには、アジア、ヨーロッパ、オセアニア、アメリカなど、様々な大陸の様々な国のパンフレットが並ぶそのラックの中で、ライダーの目に留まるものが一つあった。
──ハワイ旅行のパンフレットだ。
ライダーは、そのパンフレットを手に取り、ページを静かに捲る。
青く透き通る海、聳えるダイヤモンドヘッド、ヤシの木陰、笑顔の人々──
やがてライダーは、ただそこで空を仰ぎ、思い出に更け──
その回想は、一つの戦乱から始まった。
鳴り響く銃声や怒声の中、イギリスから調達した火器が火を吹き、容赦なく敵陣を切り崩していく。
そこに映るのは、若き日のライダーが槍を振るい、倒れゆく仲間達に歯を食いしばりながら、なお前進を選んだ日々──
そして、勝利の夜。
肩を組み合い、共に笑ったあの者たちの顔──
しかし、栄光の裏にあるのは、消えることのない痛み。
──それでも、守り抜いた者達の未来はここにあった。
やがてライダーは、轡水の自宅へ帰るなり、フローリングに座したまま、そのパンフレットを見つめ続けていた
「私が守ってきた国が、今やこの様に民に愛されているのだな…。」
そう静かに呟いた彼の表情には、満ち足りた安堵と、確かな誇りが浮かんでいた。
「…ふん。」
轡水は、横目でそんなライダーの様子を一瞥すると、やはりつまらなそうに鼻を鳴らし、再び画面に目を戻す。
──こうして、誰よりも静かで誰よりも言葉を交わさぬ陣営は、今日もまたそれぞれの距離を保ったまま、静かに時を刻んでゆくのだった。