一竜とセイバーの邂逅と契約から、数日が経過した──

この日、一竜は叡光(えいこう)大学内の一角の教室で、講義を受けていた。

教室の中は兎も角、教室付近にも、キャンパス内にも、セイバーの姿は見当たらない。

どうやら今日は自宅で留守番らしく、恐らくはいつもの様に一竜のPCで、剣術動画に没頭しているのだろう。

受講中の講義は、文学部共通の選択科目。

その為、史学科の学徒だけでなく、新聞学科や文芸学科など、他学科の顔ぶれも多く見られた。

一竜は、淡々と進む教授の話をノートに写しつつも、その意識は目の前の学業ではなく、別のものに向けられていた。

「(聖杯戦争……セイバー以外に、あと六つの陣営があるって言ってたよな。命を懸けた戦いになるってのに……今のところ顔を見たのは、ランサーとアサシン陣営だけ。 他にはどんなマスターがいて、どんなサーヴァントを従えてるんだ? ……それに、オレとセイバーで、一体何ができるんだろう……?)」

不安と疑問が脳裏を巡るたび、ペンの動きは次第に鈍り、やがて完全に止まっていた。

そんな一竜の右肩に、コツンと軽く何かが触れる。

一竜がその右側に目線を置くと、隣に座る恵茉が、シャープペンシルのノック部分を一竜に向けて突いていた。

視線を右へ移すと、隣の席に座る恵茉が、シャープペンシルのノック部分で彼を突いていた。

「ねぇ、キミ。 史学科の私市くん、だよね? 大丈夫? なんか、ずっとボーッとしてたみたいだけど?」

その一言に、夢現だった一竜はハッと我に返る。

「あっ……ああ! 新聞学科の……美穂川さん、だっけ? ありがとう、大丈夫。ちょっと考え事してただけなんだ。」

そう言って笑顔を返すと、一竜は再び正面を向き、講義へと集中を戻す。

勿論、この時点で彼と彼女がそれぞれ聖杯戦争に関与していることなど、互いに露ほども気づいてはいない。

二人は、まるで何事もなかったかのように教授の方へ視線を戻し、静かな時間が流れてゆく。

やがて、チャイムが講義の終わりを告げ、学徒達はそれぞれの目的地へと散っていった。

一竜は、このあと昼過ぎにもう一つ講義を控えていたため、学食で軽く食事をとろうとキャンパス内を歩き出す。

そんな折、スマートフォンが震えた。

画面に表示された名前を見た瞬間、一竜は目を見開く。

「…凛さんだ!」

そう、遠坂凛からの電話での連絡だ。

一竜は迷うことなく応答し、受話器越しに声をかける。

「もしもし。 凜さん、お疲れ様です。」

軽い挨拶を交わした瞬間、その声から、凛の様子がどこか妙だと気づく。

「…ほっ、よかったぁ。 ちゃんと繋がったみたい。 一竜くん、聞こえる?」

妙に不安げな口調、それに、どこか遠く、途切れがちな通信。

(あたか)も、この世の果てから発せられた通信のようだった。

「…あの、凜さん? もしかして、電波の届かない様な場所で電話してます?」

一竜が状況を推し量るように訊ねると──

「…え? アンタの学校の近くの、屋敷町にあるホテルからだけど?」

「…え?」

予想外の返答に、一竜は言葉を失う。

辺境でも地下でもなく、徒歩圏内のホテルという身近な場所だったのだ。

どうやら凛は、スマートフォンの電話機能だけは辛うじて覚えたものの、その他機能の全てを理解しているわけではないらしい。

何もかも手探りで扱っているため、通話すら覚束ない有様だった。

「まぁ、それはともかく……その後、変わりはない? セイバーと何かトラブルとか、起きてない?」

話題を切り替えながら、凛は一竜の状況を探ってくる。

「ええ、特に他の陣営とも出会っていませんし、平穏そのものですよ。 セイバーとも、彼女の過去を聞いたり、一緒にボードゲームで遊んだり……最近では、剣術動画を一緒に観るのが日課になってるくらいで。 むしろ、戦争が始まる気配すらないくらいです。」

そう語られる一竜の報告は、魔術師同士の殺し合いを前提とした聖杯戦争とは思えない、実にのどかな日常だった。

「……そう。セイバーとは上手くいってるのね。 やっぱり、気難しい魔術師が主体の本来の聖杯戦争と違って、会話が通じるのは大きいわね。」

凛の言う通り、従来の聖杯戦争に於いては、サーヴァントを単なる駒としか見ないマスターも多い。

それ故、打ち解け合うなどということは珍し、彼女の知っている中でも、第五次聖杯戦争に参加していた、かつての同級生の男子学生のみだった。

「そうですね。 今のところは、会話にも困らないで済んでますね。 だけど、聖杯戦争ってなると、この前見たランサーやアサシンの陣営のこともあるんですよね? 残りの陣営にはどんなサーヴァントがいるんですか?」

一竜はここぞとばかりに、先程の講義の最中で考えていた、聖杯戦争に関する不安を話し始めた。

その問いに、凛はわずかに息を吐きながら答える。

「そうねぇ、クラスくらいなら教えられるわよ。でも、担当魔術師が他の陣営について話しすぎるのは、この“新制度”ではルール違反なの。」

どうやら"新制度"は、飽くまでマスターである一般人達が、自らの出来ることを活かしながら聖杯戦争に勝ち抜き、魔術師は基本的に簡単な魔術の継承だけは認められているが、過度な助言や干渉を控えるという、奇妙なルールに基づいているらしい。

「まず、アンタのサーヴァントの剣士(セイバー)、この前闘ってた槍兵(ランサー)暗殺者(アサシン)、あとは弓兵(アーチャー)騎兵(ライダー)魔術師(キャスター)、そして狂戦士(バーサーカー)の七つのクラスがあるの。」

「そうなんですねぇ。 この前のアサシンは銃で闘ってたたんですけど、あれってアーチャーじゃあないんですか?」

そう、アサシンは確かに、主にコルトM1911などの銃で闘っていた。

しかし、一竜の疑問に凛は小さく鼻を鳴らす。

「本人が"アサシン"って名乗ったなら、間違いないわ。……というか、そいつのマスター、私が聞いたアーチャーのそれとは違う人物みたいなのよ。」

どうやら、凜にはアーチャー陣営のことについて心当たりがある様だ。

「えっ、じゃあ……アーチャー陣営のこと、何か知ってるんですか?」

「えぇ。 アーチャー陣営の担当魔術師は、"ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルト"っていう、いけ好かない成金魔術師よ。普段は犬猿の仲だけど、“新制度”反対っていう共通点だけはあるから、今は休戦中なの。」

どうやら凛とルヴィアは、共に“新制度”に反対する立場から、必要最低限の情報共有を行っているようだ。

しかし、恐らくその情報交換の際には、僅かなマウントの取り合い、嫌味合戦などが飛び交っているのだろう。

「それで、そいつからマスターのことについては断片的には聞いてるわ。 少なくとも、マスターは若い女学生だと。」

「また若い女性ですか!? しかも今度は女学生って!! その制度って、本当に節操がないんですね!!」

従来の魔術師による聖杯戦争では、血統や実力がものを言った。

それが今や、何の備えもない一般人が無作為に戦いへ放り込まれる。

一竜にとっては、到底受け入れがたい現実だった。

「そうなのよ。 だからこそ、わたしはそんな"新制度"なんて一刻も早くぶっ潰してやりたいから、そのルヴィアの奴と、時計塔でのわたしの先生、ロード・エルメロイII世とも協力して、少しずつ情報を集めてるわ。」

そこに滲んでいたのは、理不尽な制度に対する、凛の静かな怒りだった。

やはり、聖杯戦争の泥臭さを、魔術とはなんの関係もない一般人が味わう様なことになるのを、いち早く消し去りたいのだろう。

「はぁ……凛さん、本当(ほんっと)にお疲れ様です。聖杯戦争って、面倒なものだったんですねぇ……。」

これには一竜も、頭を抱え、言葉を失うしかない。

その背後から、じっと彼の様子を見つめる視線があった。

──恵茉だ。

「(…確かに今、"聖杯戦争"とか、"セイバー"とかって言ってたよね? そうだとすると、私市くんも参加してる!? この戦争もそんな遠くない内に始まっちゃうかも…。)」

そう思いながらも、恵茉は何も言わなかった。

ただ静かに彼の背中を見つめたまま、その場を後にした。

──聖杯戦争は、確実に近づいている。

恵茉が自宅の扉を開けると、部屋ではすでにアーチャーがロードバイクから戻り、部屋着に着替えてコーヒーを嗜んでいた。

「よぉ、恵茉。 丁度今、豆を挽いたばかりだ。 お前さんも一杯どうだ?」

どうやらアーチャーは、朝はコーヒー、ローバイクから帰宅しての昼下がりもやはりコーヒーという具合に、すっかりその味に取り憑かれているようだった。

「ただいま、アーチャー。 ありがたくいただくね。 …それと、(あたし)の話も聞いて。」

鞄をソファへ放り投げた恵茉は、そのままアーチャーの淹れたコーヒーを受け取り、対面の椅子に腰を下ろした。

「ん? 改まってどうしたんだよ? 今更契約解除だなんて言わせないぜ?」

笑いながら軽口を叩くアーチャーに、恵茉は微苦笑(びくしょう)を浮かべた。

「それはまだないから安心して。 それより、聖杯戦争の参加者が、(あたし)の通ってる学校にいるかもしれないの。 しかも、それが別学科の同級生!」

恵茉が語ったのは、先ほど耳にした一竜と凛の会話の内容だった。

「へぇっ、そいつは驚いたな! 案外、世界って狭いんだなぁ。」

アーチャーは軽く笑って受け流すが、恵茉は真剣なままだ。

「…あのねぇ。 笑いごとの様に言ってるけど、もし本当に彼がマスターだったら、聖杯戦争もいよいよ本格的に動き出すことになるんだよ? 心構えはできてる?」

その言葉には、優等生らしい冷静さと、持ち前のリーダーシップを活かした指揮官としての責任感が滲んでいた。

「まぁ、そこだよなぁ。 俺としても、気持ちはいつでも参加できるつもりだけどなぁ、その前に銃の腕を試してみたいんだよ。 だけどな、こんな平和な国で銃なんかぶっ放せば、俺みたいな保安官でもお縄だろ? いい笑いもんだよ。」

アーチャーとしても、自分の腕前が落ちていないかどうか、それがなにより心配なのだろう。

その様な話を笑いとばしながらするアーチャーはコーヒーを飲み干すと、空いたカップを持ってコーヒーメーカーへ手を伸ばし、二杯目を淹れはじめた。

「それもそうだよね。 この辺りには実銃で出来る射撃場もないし、モデルガンで出来る射撃場じゃ、アーチャーが使う銃と勝手が違うもんね。」

そんなアーチャーの返答に、恵茉もその点には同意せざるを得ない。

「その点、セイバーやランサーみたいな、デカい音が出る心配もねぇ武器を持ってるサーヴァントが羨ましいよ。 人気(ひとけ)のねぇところでやっとけばバレねぇもんな。」

そう自虐の様なことを笑い飛ばしながら語るアーチャーは、新たに淹れたコーヒーを啜った。

「確かに、銃って結構大きい音が鳴るもんねぇ。」

これには、恵茉もつい小さく笑ってしまう。

「…あと、今朝ルヴィアさんから言われた"偽名"の件って、どうなりそう?」

そこで、恵茉が切り出したのは、その日の朝の登校準備の時にかかってきた電話でのことだった。

──遡ること4時間前──

登校準備の最中、恵茉のスマートフォンが鳴った。

表示されていたのは、ROPEを通じたルヴィア・エーデルフェルトからの通話。

恵茉は、まだ準備で忙しいながらも、すぐさま着信に応じた。

「ルヴィアさん? おはようございます。 何かありましたか?」

平凡な挨拶に対して、ルヴィアは挨拶もそこそこに切り出してきた。

『ご機嫌よう、ミス・美穂川。 お忙しいことでしょうから、早速本題に入りますわ。 貴女、そろそろアーチャーにも“偽名”を設けてみてはいかがかしら?』

「偽名……ですか? 確かに、“アーチャー”って呼び続けるのも不自然ですし、かといって真名を明かす訳にもいきませんしね。」

『えぇ。過去の聖杯戦争でも、サーヴァントに偽名を与えた例は少なからずありますわ。貴女方のような庶民が対象の“新制度”では、準備の一環としても有効ですもの。』

ルヴィアの言葉には一理あった。

実際、渡航のために偽名でパスポートを取得した例や、親戚と称させたなど、歴代の戦争では様々な事情があったのだ。

「分かりました。 アーチャーとも相談します。」

『承知しましたわ。 遅くても今日の夕方までには成るべく目立たない偽名を決めておいて、(ワタクシ)にも改めて連絡をお入れなさってね。 それでは、また後程。』

ルヴィアは、偽名の決定に制限時間を設け、通話を切った。

「アーチャー。 ルヴィアさんが、アンタの偽名を考える様にだって。 夕方までには考えておこ?」

恵茉は、食べ掛けの朝食に手を付けながら、アーチャーに先程のルヴィアとの通話の内容を説明した。

「偽名ねぇ…。 オッケー、俺からも考えとくよ。」

それに対して、アーチャーはロードバイク用のウェアに身を包み、朝のコーヒーを嗜んでいた。

これが、その日の朝にあった、"偽名"に関する話の一連だった。

「あぁ。 恵茉が学校に行ってた間に、もう決めといたぞ。 "ワイアット・ジェームズ"って名乗っとくことにした。」

アーチャーはコーヒーを飲みながら、どこか誇らしげに答えた。

「…アーチャー、ちょっと待って! ワイアットって… 目立っちゃうんじゃない!?」

恵茉は、余りにも簡単な偽名の案に、思わず眉をひそめた。

“ワイアット”という名前は、決してマイナーではないが、その響きに覚えのある者も少なくはない。

「あぁ、確かに目立つっちゃ目立つかもな。 だがな、これは譲れねぇんだよ。 俺はその名前と一緒に生きてきた。 それを捨てるのは、なんか違う気がしてな。」

アーチャーのその言葉には、揺るがぬ信念があった。

「…ふぅん。 そういうこだわりなら、まぁいいか。 じゃあ、それでルヴィアさんにも報告しようか。」

恵茉はしばし悩んだ末、アーチャーの意思を尊重することに決め、ROPEでルヴィアへ連絡を入れた。

『…まったく、目立たない偽名を、と申し上げましたのに。 ですが……その意志が本物なら、致し方ありませんわね。』

電話越しのルヴィアは、明らかに呆れを含んだ溜め息を漏らした。

しかし、偽名を決めることにあまり時間を掛けられないので、彼女もそれ以上異を唱えることはなかった。

この、"サーヴァントの偽名問題"は、恐らくその他の陣営でも、頭を悩ませる課題として考えられることとなるだろう。