ここで、他の陣営による、この日に至るまでに起こった"偽名"に関する一連を見てみよう。
アーチャーの偽名が決まったその日の昼下がりのこと。
亜梨沙のその日の仕事は、早出早上がりだったこともあり、帰り道にランサーと共に商店街で買い出しへ出かけていた。
「なあ、亜梨沙。 今日の晩飯は何だ?」
ランサーはすっかり、亜梨沙の手料理の虜になっているらしい。
今夜の夕食の買い出しにも、どこか浮き立つような足取りで同行している。
「今日はね、肉野菜炒めにしようと思ってるよ。 私は豚肉にするけど、ちゃんとランサーには鶏肉で作るから。」
その配慮には、きちんと理由がある。
ランサーがインド出身の英霊であることから、宗派や宗教上のタブーに対して、彼女なりに気を遣っているのである。
「おおっ、気にかけてくれてるんだな! サンキュー、亜梨沙!」
陽気なランサーは感謝の意を込めて、軽く彼女の肩をポンポンと叩く。
「(あはは……なんとかこのノリにも少し慣れて来たけど……。)」
亜梨沙も、最初の戸惑いに比べれば、だいぶ彼の空気に馴染んできた様だった。
そんな中、通りがかった文房具屋の前から、甲高い声が聞こえてくる。
「あら"スシャント"ちゃん!」
声をかけたのは、この商店街でも顔の知れたのおばちゃんで、その呼び名の先にいたのは──
「よぉ、おばちゃん!」
そう軽やかに返すのは、他でもないランサー本人だった。
「アタシもね、スシャントちゃんに刺激を受けて、ジョギングを始めたのよ。 身体が軽くなって、ちょっと体重も減ってきたの!」
どうやらランサーの影響力は、予想以上に町に広がっている様だった。
「おぉ、それはいい傾向だな! まぁ、無理しない程度でな!」
彼の屈託ない笑顔と気さくな声に、亜梨沙も驚きを隠せない。
「ランサー、もう周りの人達と仲良くなっちゃってる……!」
内気な彼女にとって、人と自然に打ち解けることは容易ではない。
それだけに、彼の社交性に舌を巻いていた。
だからこそ、ランサーのその能力に驚きを隠せない。
──実はこの“偽名”問題、ランサー陣営では他よりも早い段階で片が付いていた。
──遡ること2日前──
それは、亜梨沙がこの日の仕事の準備の為に、髪を整えていた時だった。
「ランサーの"偽名"……ですか?」
それは、仕事へ行く準備をしていた最中、担当魔術師のメルヴィンからROPEでの通話が入り、亜梨沙がそれに応じていた。
『そうそう。 あまり外で“ランサー”と名乗っていたら、周囲が不審に思うだけじゃなく、下手すれば血の気の多い陣営と鉢合わせて、その場で戦闘なんてことにもなりかねないでしょ? だからさ、今日の夜までには一つ考えておいて欲しいんだよねぇ。』
電話の先のメルヴィンは、宿泊先のホテルのカフェテリアで、優雅な朝食を嗜みながら話していた。
無論、吐血対策の為の、自前の増血剤は常備している。
「……分かりました。なるべく早めに決めて、また連絡します。」
通話を終えた後、亜梨沙は自宅でランニング前のストレッチをしていたランサーに話しかけた。
「ランサー、偽名を決めた方がいいってメルヴィンさんが言ってたよ?」
「おお、そうか。で、亜梨沙は何か案があるか?」
伸脚しながら尋ねるランサーに、亜梨沙は申し訳なさそうに頭を振った。
「……う〜ん。 私、インドのことって、あまり詳しくないから……。 悪いけど、ランサーに考えてもらってもいい?」
彼女は大学時代も異文化交流の機会に恵まれず、インドの人名や言語に触れる機会もほとんどなかったのだから、無理もない話である。
「気にすんな。 任せとけ、夜までには決めとくよ。」
こうして、偽名はランサーによって捻出されることとなった。
そしてその夜──。
夕食の準備を進める亜梨沙が、ふと思い出したかの様に、今朝の偽名のことについて話した。
「そう言えば、ランサー。 偽名決まった?」
すると、ランサーは満面の笑みを浮かべて答える。
「あぁ。 “スシャント・クマール”にするぜ!」
ランサーは、その時にはもう、偽名を決めていたのだ。
「へぇ、その名前って何か意味があるの?」
「ま、特別な意味はねぇけど、祖国じゃ割と平凡な名前だな。」
その名はインドでは極一般的な男性名と姓であり、偽名としては目立たず理に適っている。
「そうなんだぁ……。やっぱり、インドのことはまだまだ知らないことばっかり……。」
どこか恥ずかしそうにうつむく彼女に、ランサーは豪快に笑って返す。
「はっはっは! まぁ、そんなもんだよな!」
「でも…響きはいいと思うよ。」
その言葉に偽りはなかった。
自然体で優しい響きに、彼の人柄が滲んでいる様な気がした。
「おっ、そうか! サンキューな!」
ランサーも、亜梨沙のその言葉に、気さくに礼を述べた。
こうして、“スシャント・クマール”という名前は、町に少しずつ浸透して、今に至ったのだった。
文房具屋のおばちゃんに続き、今度は青果店の前で──
「よぉ、“スシャント”のあんちゃん。 これ、持ってくか? ちょっと熟れすぎてるけど、甘くて美味いぞ!」
気さくな店主のおっちゃんが手渡したのは、商品としては出せないほど熟れたバナナだった。
この青果店のおっちゃんは、常連客も認知している程の大の甘党の為、同じくとても熟れているバナナの方が好きなランサーと意気投合していた。
彼にとっては、そのバナナは当たり“当たり”らしい。
「おぉ! サンキューな、おっちゃん! 今度、グラブジャムンでも持ってくるよ! 甘いの好きだろ?」
「おぉ、世界一甘いって言う、インドのデザートだろ? それは楽しみだな!」
甘いもの好き同士の二人の会話に、思わず亜梨沙も驚いていた。
「なんだか物々交換が始まってる!」
それでも、ランサーが町に自然と馴染んでいる姿を見ると、彼女の心もどこか安堵していた。
「ランサー、すっかり名前が定着してきたね。」
「そうだな。この辺の人たち、みんな温かいからな。それが一番大きいかもな。」
この街の空気が、ランサーの陽気さと奇跡的に調和しているのだろう。
さらに、途中で彼のランニングの為のスポーツドリンクを買う為に立ち寄ったコンビニで──
『スシャントさん、こんにちは。 今日もいっぱい買いますねぇ。』
若いインド人の留学生のアルバイトが、コンビニの篭に大量のスポーツドリンクを入れたランサーに、ヒンディー語で楽しそうに話していた。
『よぉ! あぁ、いっぱい走ってるから、すぐになくなっちゃうんだよ。』
会話はすっかり母語でのやり取りがなされ、レジ越しの笑顔に、異国の空気が一瞬だけ流れている。
「……やっぱり、同じ母国語の人がいるともっと嬉しそうな顔してる。」
その姿に、亜梨沙はじんわりとした感慨を覚えるのだった。
一方その頃、キャスター陣営は、いまだに“偽名”の決定に頭を悩ませていた。
纐纈は、ネット検索で中国の人名の一覧を漁りながら、未だキャスターの偽名に悩んでいる。
そのすぐ横では、キャスターが変わらず格闘ゲームに没頭していた。
巷で話題のオンライン3D格闘ゲームで、彼女はまたも連勝記録を更新中である。
「んん〜……やっぱ他国の名前って難しいねぇ……。」
スマホを片手に、もう一方の手で額をコツコツと叩きながら、纐纈は呻くように呟く。
「士、私は別に中国の名前には拘らないよ。 これでも私もこれでも考えてるから、そんなに頭を抱えることもないさ。」
ゲームの合間に、ちらりと彼に目をやりながらキャスターが言った。
「……うん、ありがとう。 でも、俺もセッカクの案件作業にも精を付けなきゃ。」
そう、只でさえ鳴かず飛ばずなフリーランスである彼も、折角入った案件をほったらかしにしてしまっては、生活すら危うくなってしまう。
そもそも、彼らが偽名選びに悩むことになっているのは──
──遡ること5時間前──
纐纈のスマートフォンに、ロード・エルメロイII世からROPE経由で通話が届いていた。
『ところで、キャスターの偽名はどうするんだ?』
連絡の要点は、現況の確認とキャスターの表向きの名に関する話題だった。
「あぁ、それがまだなんですよぉ。 "PyroMind"ってゲーマーネームでなら活躍してますケドねぇ。」
この時の纐纈は、コーヒー片手に例の久しぶりに入ったクリエイターとしての案件の作業を自宅でしながら電話をしていた。
なお、キャスターのゲーマーネームである"PyroMind"は、"炎の知略家"として、彼女本人が名乗っているものである。
『はあ……。 それはハンドルネームだろう? 私が言っているのは、“現実で通用する偽名”だ。 今日中に決めておかないと、命取りになってしまうぞ? 頼んだぞ。』
不安が拭えず溜息をもらすロード・エルメロイⅡ世は、そう言い残して通話が終了した。
すると纐纈は、横で聞いていたキャスターにも"偽名"の件について、カンタンに共有する。
「……だってさ、キャスター。」
「ふむ、なるほど。 ふふっ、私も考えてみるさ。」
彼女は、その時から例の3D格闘ゲームに勤しんでいた。
その様な経緯を経て、今に至る。
そして、日は落ち、部屋には茜色の夕日が差し込んでいた。
案件作業と名前候補探しの繰り返しに疲れ布団の上で寝転がっていた纐纈は、まだゲームに集中するキャスターを横目に見やった。
「(キャスター、あれから7時間もゲームしてる。)」
少し呆れ笑いつつも、彼はのんびりとした口調で声をかけた。
「キャスター、結局偽名どうするの? もう夕方になっちゃったよ?」
すると、ゲームの操作を続けながらも、キャスターはひょいとこちらを見て言った。
「あぁ、実はもう決めていてね。 “孫玲奈”で行こうと思うよ。」
「ほぉ! そこで敢えて”孫”を使うんだね?」
纐纈は、涅槃の様な状態から勢いよく上半身を起こすと、布団の上に胡座をかき、キャスターに向き直った。
この“孫”という姓が、キャスター本人の真名に関わるものではないことは、既に知っていた。
だが、その背景には何か特別な思いがあるのではと、彼は思った。
「あぁ、私を雇ってくれた主君への誇りを捨てるつもりはないからね。 まぁ、晩年の彼には、文字通り死ぬ程苦労掛けられたけどね。」
過去を皮肉混じりに振り返りながら、キャスターは半ば自虐ネタを交え笑ってみせた。
「なるほどね! 俺もやっぱり、キャスターが所属してた国の方が、あの三つの国の中じゃぁ好きだからいいと思うよ!」
実のところ、纐纈はキャスターの時代や国の歴史に強く惹かれており、サーヴァント召喚以前から彼女のことを知っていたのである。
「ふふふ、それは嬉しいね。」
穏やかな笑みを浮かべながら、キャスターは素直に応じた。
「それにしても、名前の方は日本風にしたんだね?」
「あぁ。このゲームに、玲奈っていうクールなキャラがいてね。その名前を借りたのさ。」
キャスターが言う“玲奈”とは、今まさに遊んでいる格闘ゲームのキャラクターで、冷静沈着な躰道使い。
その見た目と立ち振る舞いから、新規キャラでありながらファンも多い。
「あぁ、やっぱりね! ん? でもキャスター、その玲奈って使ってたっけ? さっきから見てたら、お嬢様キャラとか、カラクリ忍者キャラとかばっかり使ってた気がするんだけど?」
彼もこのゲームは四作品に渡って触っており、使用キャラの傾向は見て取れていた。
だからこそ、キャスターが未だ使用していない玲奈である理由も気になっている様である。
「いや? そもそもこのお嬢様キャラがメインだし、玲奈はサブですらないよ?」
「ズコーッ! キャスターもやるようになったねぇ!」
キャスターの言い放ったことに、纐纈は布団の上でずっこける仕草をしつつ、声を上げて笑った。
「ふふふ。」
その様子を見て、キャスターも楽しげに微笑んだ。
マイペースな二人のやりとりは、今日もまた、穏やかに過ぎていく──