──アーチャーやキャスターの偽名問題解決から、遡ること二日前──

アサシンの偽名に関する話は、もうミルコの口から猪狩へと伝えられていた。

「…やっぱり、偽名が要るよな。 こっちは、親分が酒の流通のシノギを始めちまったから、尚更だ。」

そう、いわば“シノギ”を始める以上、名義の用意は不可避だった。

猪狩もまた、それに合わせてアサシンの偽名について本格的に考えることになった。

『その通りだ。 シノギを始めたこと自体、不本意ではあるが……状況が状況だ。 なるべく目立たぬ名前を選んで、私に報せて欲しい。』

通話を滞りなく終え、猪狩はスマートフォンをポケットにしまい、ソファへと視線を向けた。

そこには、葉巻を(くゆ)らせながらくつろぐアサシンの姿がある。

「親分、ミルコからの言伝(ことづて)だ。 アンタの偽名が必要になったぞ。 どうする?」

猪狩はそのまま、先程の偽名問題について、アサシンに切り出した。

「偽名かぁ。 俺様の名前という看板を、仮にでも捨てろってことだろぉ? そりゃあ困るぜ。」

アサシンはどこか釈然としない様子で抗議しつつも、豪快に笑い飛ばし肩を竦めていた。

伝説のギャングとして、その名が“力”そのものであった者にとって、名を隠すというのは何よりもムズムズする行為なのだろう。

「まぁ、親分の言い分はわかるよ。 だが、これは聖杯戦争だからな。 アンタがこの時代にいることが外部にバレたら、こっちだけの問題じゃ済まされねぇんだ。 イタリア系アメリカ人の名前なら、いくつか候補もあるだろ?」

猪狩としても本音では、アサシンをかの”伝説のギャング”として受け入れていた。

しかし、敵陣営だけでなく裏社会からも狙われかねない現代では、真名を晒すのはあまりにリスキーだ。

「…んまぁ、それもそうだな。 ちょっと考えてみるさ。」

アサシンも、やや渋々ながら、名を隠す必要性を理解し始めていた。

己の“看板”を捨てる──その苦渋を飲み込み、偽名を探る覚悟を固めたのだ。

──それから一時間後──

「ほらよ、昌真。 これでいいだろ?」

もう偽名を決めていたアサシンはそう言って、得意げな顔で紙のメモを猪狩へと手渡した。

「おっ? 思ったより早いじゃないか。 どれどれ…。」

猪狩がそのメモを開いてみると――

「親分!? “アル・キャプラン”って…"アル"を残すなんて、アンタ偽名にする気あるのか!?」

そのメモの内容を見るなり、呆れとも困惑ともつかない表情で、猪狩はアサシンに問い詰めた。

「おうよ! でもよ、どうしても“アル”は捨てきれなかったんだよ。 俺様の“名”は、俺様の“誇り”だ。 それだけは譲れねぇ。」

アサシンは葉巻に火をつけ、ふっと煙を吐き出すと、堂々とした口調でそう言い放った。

「…ま、そこまで言うなら異論はねぇよ。 でもなぁ、アンタの風貌とその偽名の組み合わせじゃ、その内バレちまうぜ?」

猪狩もまた、アサシンの威圧感に押される形で了承はしたものの、内心では彼の素性が露見してしまうかもしれない危うさに不安を残していた。

「そう簡単にバレやしねぇよ。 他の陣営のヤツらはともかく、一般人にゃぁ俺様の正体なんかわかるかっての!」

しかし、アサシンは自信満々の表情で、葉巻の煙を燻らせながらそう語った。

「ん~…まぁ、そうかもな。 ミルコにも報告しとくよ。」

猪狩はやれやれといった様子でスマートフォンを取り出し、再びミルコへと連絡を入れる。

『…ふむ。 やはり真名の一部をどうしても使いたいと言うのか…。 まぁ、概ね予測はついていた。 アサシンがその偽名を譲らぬと言うのなら、仕方あるまい。 以後はそれで通そう。』

ミルコもまた、彼の“看板”へのこだわりは理解していた。

真名の一部を含むその名を認めざるを得ないのは、魔術師としての計算よりも、“彼自身”を尊重した結果だった。

「あぁ、悪いな。 俺の方からも、"あの伝説のギャングに憧れている男"として誤魔化すなり、なんとかしとくよ。」

猪狩としても、ミルコにはその様な対策を取ると伝えるなど、通話している姿には多少なりの苦労が見て取れた。

なお、当のアサシンは、ソファに深く腰を下ろし、相変わらず葉巻を吹かしながら、まるで何事もなかったかの様に、余裕の笑みを浮かべていた。

一方、アーチャーやキャスターの偽名問題解決と同日のこと。

「はぁ、偽名ねぇ…。 バーサーカー(あいつ)に今更そんなものを付けたところで、果たして誤魔化しきれるもんなんですかねぇ…?」

大部屋のコワーキングスペースで、バーサーカーを連れて一人で業務中の冨楽のスマートフォンに、シリルから通話が届いていた。

その用件は、他の陣営の例に違わず、バーサーカーへの偽名の件だった。

『冨楽様、確かにバーサーカーの様な規格外の存在に、偽名を与える意味などないのではという気持ちは、勿論理解はしますとも。 それでも、祖国には"最善を望み、最悪に備えよ"と言う言葉もありますし、対策をするに越したことはありませんからね。 ですので、偽名の件は早急にご決断くださいねぇ。』

相変わらずまるで詐欺師じみた口調で、言葉巧みに“押しつける”シリルの言い回しに、冨楽は軽く溜息をついた。

なお、"最善を望み、最悪に備えよ"とは、いわば日本で言うところの“備えあれば憂いなし”に相当する英語圏での諺である。

「バーサーカー、お前に偽名が必要だって。」

冨楽は、隣でジャンクフードをむしゃむしゃと貪るバーサーカーに、偽名の件について淡々と告げた。

「? ナンダ… ソレ?」

当然のように、バーサーカーはポカンと口を開けたまま、食べかけのスナックを握った手を止め、首を傾げていた。

彼に“偽名”という概念が通じるはずもない。

「まぁ……嘘の名前ってことだよ。 真名をそのまま使う訳にゃいかないしな。 でも、お前に偽名を考えさせるのは……無理か?」

冨楽は試しにバーサーカーに伝わり易そうな説明を試みるも、やはり狂化された彼には難しそうだと判断する。

オレ(オデ)… ワカンネ…。」

その冨楽の判断は当たっていて、案の定本人も首を更に傾げながら答える。

「やっぱそうだよなぁ…。 じゃあ、こうしよう!」

少し考えた後、冨楽はバンっと手を叩いて、さっぱりした顔で提案した。

「お前の偽名は…"たかし"だ!」

その内容は、シンプルかつ一般的な日本人男性名だった。

街中で呼びかけられても違和感のないレベルで、誤魔化すには充分と言えよう。

「タカシ…?」

初めて聞く音の並びに、バーサーカーはやや戸惑い気味な声を漏らしていた。

「そう。 “一般的な名前”ってこと。 あと、苗字は…。」

そう言いながら冨楽は、メモに書かれたバーサーカーの真名をちらっと見返した。

そして一言──

「じゃ、“兀突(うつき)”でいこうか。“兀突(うつき)たかし”、これで完璧だな!」

その苗字は、バーサーカーの真名の一部から拾われた音をもとに、漢字を日本的に見せたもの。

一般人が聞いてもさほど違和感がなく、しかも記名が必要な場所へ行く予定もないため、読みも誤魔化しやすい。

「オレ…タカシ…ワカッタ!」

名付けに満足したのか、バーサーカーは目深に被られたパーカーのフード越しでも分かる程の純粋無垢な笑顔で、嬉しそうに頷いた。

こうしてバーサーカーの偽名問題は、他陣営よりも圧倒的なスピード──たった数分で、あっさりと解決を見たのだった。

──アーチャーやキャスターの偽名問題が解決する、さらにその前日──

今日も昼下がりとは思えぬほど、陽の光が一切届かない薄暗い部屋。

その中で、轡水(ひすい)は、いつものようにモニターを見つめながら、株価チャートと謎めいたドキュメントの入力作業に没頭していた中、化野菱理からROPEでの通話着信が来ていた為、それに応じていた。

「…そうか。 やはり、偽名も必要だよな。」

言わずもがな、その要件は、サーヴァントに対する偽名の選定の話だった。

『流石轡水(ひすい)様、お話のお早い。 仰る通りで御座います、 (ライダー)が現世に溶けこむには、必要不可欠なものとなるでしょう。』

通話の先の化野は、宿泊先のホテルの一室で何かの資料をまとめながら、涼やかな口調でそう続けた。

「…わかった。 気が向いたら決めておこう。」

それだけ返すと、轡水(ひすい)は即座に会話を終えようとする。

『畏まりました。それでは、なるべく早めにお願いいたします。失礼いたします。』

長話を嫌う彼の性分を、化野もよく理解していた。

通話が切れると同時に、轡水(ひすい)は無言でPCへ視線を戻し、隣で槍の手入れに集中していたライダーに向けて、声をかけた。

「…ライダー、偽名が必要だ。 お前が決めておけ。 僕には他にやることがある。」

轡水(ひすい)は完全なる丸投げで再びPCに目線を向けるが、ライダーは気にした様子もなく、手入れの手を止めずに頷く。

「うむ、承知した。」

これに対し、日課の槍の手入れに勤しんでいたライダーは、二つ返事で轡水(ひすい)の指図に応じた。

その横には、先日の散歩の最中で手に入れた、ハワイ旅行のパンフレットがあった。

「…京介。 些か散歩に出る。 よいな?」

槍を片づけながら、ライダーはそう言って立ち上がった。

散歩は、今やこの時代での彼の数少ない趣味の一つでもある。

「…まったく、呑気なものだな。 偽名を決めるべきだと言うのに。」

そんなライダーに対して、轡水(ひすい)は呆れ顔で嫌味を飛ばすが、ライダーはどこ吹く風だった。

「環境を変えるのも、思索を巡らせる一つの手段と思ってな。 戻る頃には決めておくさ。」

その言葉を残し、ライダーは部屋を後にした。

歩きながら眺める街並みは、以前と変わらず、人々の善と悪、光と影が混じり合う世界。

だが、戦争という大義も暴力もないことが、彼には平和と映る。

やがて、目の前に現れたのは、先日見かけたハワイ料理の店。

轡水(ひすい)の部屋にあったハワイのパンフレットといい、この土地に関する記憶が、自然と彼の思考に影響を与えていた。

「(…やはり、故郷の言語に基づいた偽名が良さそうだな。)」

そう思案を巡らせながら歩いた散歩は、気づけば二時間に及んでいた。

戻ってきたライダーは、片手にドリンクが入った袋を提げ、もう片方の手でドアを開ける。

「京介、只今戻ったぞ。」

その顔には、満足気で穏やかな表情が浮かんでいる。

「…やっと戻ったか。 二時間ものんびりと散歩なんて、つくづく呑気なものだな。」

呆れを隠さず嫌味をぶつける轡水(ひすい)に対し、ライダーは袋を差し出した。

「まぁ、そう言うでない。 手土産を持って参った。 其方の好みはこれで合っていたはずだが?」

ライダーが、左手の袋から取り出したのは、タピオカミルクティーだった。

それは、轡水(ひすい)が時折、出前サービスを使って注文するものだったので、ライダーもその光景を覚えていたのだ。

「…まったく、余計な事ばかり覚えやがって… それで、偽名は決めたか?」

轡水(ひすい)は、悪い気はしなかったのか、静かにライダーの手からタピオカミルクティーを受け取り、本題である偽名について切り出した。

「うむ。 それならもう決めている。 "カイ・マヘカラ"と名乗ることにした。」

「ほう。……理由は?」

轡水(ひすい)は、ライダーが買ったタピオカミルクティーを飲みながら、彼に偽名の由来について問い質した。

「なぁに、ふと心に浮かんだまでのことよ。」

ライダーは空を仰ぐ様な仕草でそう語ると、自分の分のタピオカミルクティーを手にして腰を下ろした。

「…そうか。なら、それでいい。」

轡水(ひすい)は、自分から問い質したにも関わらず、それ以上は何も言わず、再びタピオカミルクティーを飲み続けた。

こうして──セイバー以外のすべてのサーヴァントの偽名が、無事に出揃ったのだった。