それは、ある晴れた朝のことだった。
一竜は、いつもの様に朝食を摂り、大学の講義に向けた準備を進めていた。
身支度を整える彼の様子を、テーブル越しにセイバーが静かに見つめている。
緑茶の湯気が立つ湯飲みを手に、柔らかな微笑みを浮かべながら声をかけた。
「一竜殿。 毎朝のご準備、ご立派です。」
召喚されて以来、セイバーはほぼ毎朝、一竜の登校準備を眺めていた。
だからこそ、その姿には自然と感心が滲み出ていた。
「はは、一年以上も通ってるからな。 最初は毎日ギリギリでさ、朝食すら怪しい日もあったんだけど、最近はもう体が勝手に動く感じだよ。」
大学生活も二年目に入り、登校準備は一竜の生活習慣の一部になっていた。
「なぁセイバー。 いつも家に一人で留守番ばっかじゃ、退屈だろ? 今日さ、オレの大学、一緒に行ってみるか?」
鏡の前で髪を整えながら、何気なくかつ、どこか気遣いのこもった口調だった。
セイバーの趣味になりつつある動画鑑賞も、剣術動画が毎日更新されるわけではない。
同じ映像を繰り返し観る日々に飽きを感じているのではと言う、そんな気遣いだった。
「よろしいのですか? でしたら、お言葉に甘え同行させていただきます。」
セイバーの返事は嬉しそうで、どこか晴れやかだった。
日々の静かな時間も悪くはないが、それでもやはり、動きのある日常を望んでいたのかもしれない。
「おっけー、じゃあ今日はそうしよっか。 ただし、目立つのはナシでな? 何かあったら凜さんに何言われるか分かんないからさ…。」
一竜もこの数日の間で、凛の厳しさについても色々と思い知ったことがあったのだろう。
その最中でも、彼女からは目立たぬ様に念を押されていたこともあり、セイバーにも強く要請した。
「承知致しました。 善処いたします。」
そして、二人は連れ立って大学へと向かうことにした。
──それから二時間程後──
この日の講義は、史学科の個別選択科目。
教授の淡々とした講義の声が教室に響き、一竜はいつも通りノートを取りつつ、その筆先の奥では別の心配事が渦巻いていた。
「(…セイバー、大丈夫だよな? 目立つなって言ったし、本人も頷いてたけど…。)」
一竜の胸の内には、キャンパス内で別行動をしているセイバーへの不安が残っていた。
登校時、二人はキャンパス内の軒下の休憩所で一旦別れていた。
セイバーはその場で待機し、目立つ行動は避けると誓ってくれていたのだ。
だが、一竜の集中は散漫だった。
一竜は、終始心が落ち着かないまま講義を受け、遂には講義終了のチャイムが鳴ってしまう。
教室からぞろぞろと学徒達が出ていく中、一竜もノートをカバンに突っ込み、急ぎ足であの休憩所へと向かった。
ところが──
「……あれ、いない?」
休憩所には、セイバーの姿がどこにもなかった。
「(トイレとか、そういうんならいいけど…。)」
一竜の胸騒ぎは、講義中の時よりも高鳴っていた。
その時──
「うわーっ! 参りました!」
東側にある体育館から、男子学生の叫び声が聞こえ、それに続いて盛大な拍手喝采が聞こえて来た。
「(……この時間、体育館って剣道部の練習だったはず……まさか!?)」
一竜は、鼓動が跳ね上がりながら走り出す。
その鼓動は、まるでバイクのエンジンの様な轟音となり、最早人間バイクばりに胸に響かせていた。
体育館の前には人が集り、学生も、剣道部員も、教授すらも集まっている。
そして、問題のその中央には──
「はぁ、はぁ……お姉さん、強すぎっすよ……!」
地面にへたり込む男子剣道部員が、息を切らしながら叫ぶ。
その目の前には──
「とんでもないことです。 御相手、ありがとうございました。」
涼しげな顔で、竹刀を片手に男子学生に丁寧に一礼をするセイバーの姿があった。
この両者が敬意を払い合う一連の行動に、周囲の学徒や教授から、まるでコンサートでの演奏終了の様に、再び拍手喝采が巻き起こっていた。
「(ゲゲッ、やっぱりセイバー!? マズイ!!)」
当然、その様な光景を、一竜が見過ごす訳もない。
一竜は、ここ最近で一番とも言える程の猛スピードで、セイバーの元へ駆け寄る。
「あはは、うちのツレが失礼しましたーっ! 竹刀は返しますね! じゃ、失礼しまーすっ!」
愛想笑いを浮かべた一竜は、セイバーが持っていた竹刀を剣道部の顧問の教授へすぐに手渡し、彼女を連れ、颯爽と撤収していった。
二人は駆け足で正門からキャンパスを後にし、一竜が口を開く。
「セイバーっ! どうしてそうなったんだよぉ!?」
まだ困惑を帯びた顔を隠しきれない一竜は、セイバーに事の顛末について問い質した。
「一刻前、先程の剣の稽古を拝見しており、私も剣を振る身振りをしていたら、指南役の男性から些かその稽古に試しに混ざるか否かの誘いを頂き、先程に至りました。」
そう語るセイバーの表情には、申し訳なさそうな色が見られないどころか、どこか誇らしげの様だった。
「あぁ、体験練習に付き合わされてたのかぁ…。 いや、まぁ気持ちは分かるけどな、ああいうのは断ってもいいんだぞ?」
「されど、彼らも稽古を求めていたのでしょう? その気持ちを受け止めるのも礼儀かと。」
セイバーの剣に対する誠実さは、やはり一竜の想像以上に強いものだった。
「……まぁ、それはそうなんだけどさぁ……また凜さんにどやされるってぇ…。」
「承知致しました。 以後、気をつけます。」
一竜は普段から、凜に電話越しで厳しく扱かれて来たということを周知していたセイバーは、彼の為と思い、素直に頷いた。
彼女のその様子を見て、一竜も安どの表情を浮かべ、ホッと息をつく。
その時──
「ふぅん、なるほどねぇ。 やっぱり聖杯戦争に関わってるんだ。」
背後から聞こえた声に振り返ると、そこには──
美穂川恵茉が、隙のない立ち姿でこちらを見つめていた。
「えっ、美穂川さん!? いつからそこに!?」
一竜が飛び跳ねる様に驚きの声を上げた。
「私市くんが休憩所に向かってた時から、ずっとね。 彼女が剣士なんでしょ?」
恵茉も、先日の一竜と凜の電話を聞き入れていたこともあり、核心を突く様に問い質し出す。
「え、えーっと……何の話かな?」
一竜は苦笑いで、視線を右側に配りながらなんとか誤魔化そうとするも、こうなってしまっては、もう逃げ場はない。
今の一竜は、最早蛇に睨まれた蛙、或いは袋の鼠だ。
「とぼけなくてもいいよ。 アタシも同じ立場だからね。」
恵茉は自信に満ちた笑みで腕を組み、自分の状況をも開示し始めた。
その直後、三人のもとに、ロードバイクに跨った一人の中年男性が、サングラスを外し──
「よぉ、恵茉。 お疲れさん。 近くを走ってたから寄ってみたぞ。」
そう話しかけたのは、お気に入りのロードバイクに跨り、日課のサイクリングでご機嫌なアーチャーだった。
「あら、アーチャー。 お疲れ様。 あまりにも丁度よすぎるね。」
そう、まるで脚本に沿って生じた様なこの状況は、恵茉もアーチャーも狙ってしたことではない。
何もかも全て、偶然と偶然が重なった、筋書きのないドラマなのだ。
「マジかぁ…。」
一竜は、恵茉が聖杯戦争参加者だと言う事実が確立するなり、全てを諦めたように、溜息を吐いて俯いている。
その横のセイバーは、ただ真っすぐな視線で、恵茉とアーチャーを見据えていた。
「…? …どういう状況だ?」
今しがた到着したばかりのアーチャーだけが、状況を飲み込めず、少し首を傾げていた。