セイバーの偽名が決まった、翌日のこと。

この日も一竜は叡光大学に登校し、二コマの講義に出席する予定だった。

セイバーには昨日と同様、キャンパス内で待機してもらうことになっている。

「セイバー。 昨日の件もあるし、今日は体育館の近くじゃなくて、第三棟の休憩所で待っててな? 動画が観たいなら、このタブレットならWi-Fiが繋がるから、自由にしてていいぞ。」

昨日、剣道部にうっかり捕まった前例もあり、再び目立つことを警戒した一竜は、体育館から遠い休憩所を指定する。

「承知致しました。 今回こそ、目立たぬ様に努めます。」

セイバーの落ち着いた応答にほっとした矢先、ふと近づいてくる人影があった。

「おはよう、私市くん。 それと──そちらのお姉さん、先日は見事な剣捌きを披露してくれてありがとう御座いました。」

朗らかな声と共に現れたのは、叡光大学剣道部の顧問・冴島教授だった。

「…あっ、冴島先生、おはようございます。 こ、こちらこそ昨日は…その、ツレの"直さん"が失礼を…。」

焦りながら言い訳を試みる一竜の横で、セイバーが軽やかに一歩前に出た。

「先日は鍛錬の場を設けていただき、ありがとう御座いました。 改めまして、"井上直"と申します。」

昨晩決めた偽名を、堂々と名乗る姿は、どこか誇らしげでもあった。

「井上さんですね。 私は当大学剣道部顧問にして、総合人間学部・心理学科の冴島と申します。 丁度井上さんもいらっしゃることですので、私市くんも交えて、お願いしたいことが御座います。」

教授は目を細め、にこやかに続ける。

「お願い、ですか…? オレと直さんに?」

一竜は困惑した面持ちで首を傾げた。

冴島教授は別学部の人物であり、接点などほとんど無いはずなのだ。

「ああ、単刀直入に言うとね──そちらの井上さんを、うちの剣道部の非常勤コーチとしてお招きしたくてね。」

冴島教授のまさかの誘いに、一瞬一竜の空気が止まり、次の瞬間には彼が叫んでいた。

「えぇぇ!? セイ…、直さんをですか!?」

前夜に"目立たない様に"と約束したばかりだった一竜にとって、この話はまさに寝耳に水だった。

「そうなんだよ。 ほら、あの見事な剣技を見て、見学してた学生も教授陣も大絶賛でね。 一コマ一万円でどうかな? 井上さんも、ご興味は御座いますか?」

──結局、昨日の体験練習での余波は、想像以上に波及していたらしい。

「一竜殿、私には異存ありません。 これは稽古の一環と考えれば、至極妥当なことかと。」

「あーあ。 やっぱ断るとは言わないか…。」

あっさりと了承の意を示すセイバーを見て、一竜は力なく笑った。

脳裏には、また凜からの説教が蘇ってきている。

彼女の"目立つな"という釘の音が、耳の奥に残響していた。

当然ながら、この日の一竜は講義に集中出来るはずもなかった。

一限、二限ともノートに手を動かしはしたが、内容などまるで頭に入ってこない。

セイバーのことが気になって、足は貧乏揺すりを止めることも出来なかった。

しかも、この日の講義は史学科中心で、新聞学科専攻である恵茉も当然おらず、現状を共有出来る者もいない中、一竜は一人悶々と過ごすことになる。

やがて講義が終わると、彼は足早に体育館へと向かった。

──そして、その光景を目にする。

体育館では、セイバーがコーチとして見事な指導を披露していた。

部員達は、彼女の華麗な太刀さばきに目を奪われ、控えの部員達も感嘆の声を上げている。

「おぉっ! 直さん、やっぱすげぇーっ!」

「最早達人技すぎて、参考にならないよコレ!」

実戦を潜り抜けてきたセイバーの剣技は、部員達にとって完全に"異世界の技"だった。

「ご心配なく。この技術、(ことわり)を理解すれば簡単なものです。 峰で相手の刀を軽く捌く、それがコツです。」

的確かつ丁寧な指導を行うセイバーの姿は、まさしく"武の教師"のそれだった。

「はは、セイバーのヤツ。楽しそうにしちゃって…。」

一竜の心は、心配よりも安堵が勝った。

彼女の表情に影はなく、ただ真っ直ぐに"指導する"という行為に向き合っていた。

やがて練習が終わり、初日の指導も無事終了した。

「井上さん、本日はありがとうございました。 次回もどうぞ、よろしくお願いします。」

冴島教授が日当の入った封筒を差し出し、セイバーは両手で丁寧に受け取った。

「こちらこそ、学びの場を頂き、感謝申し上げます。 次回も、よろしくお願い致します。」

その後、セイバーは更衣室で着替えを済ませ、普段のセーターとデニム姿に戻ってきた。

「一竜殿。 本日も、御学業に励まれ何よりです。」

「セイバーこそ、お疲れ様。 昼はその辺でなんか食べようか。」

二人は互いを労いながら、正門からキャンパスを後にして行った。

「この時代の男児も、剣の道を志すとは…やはり、武の心は廃れていないのですね。」

「まぁ、戦国時代と違ってルールありきのある種のスポーツだけど、礼節は今も大事にされてるし、良い文化だよなぁ。」

歴史好きの一竜らしい肯定を返しながら、穏やかに歩を進めていた──その時。

「よぉ! 随分信頼し合ってる様だな!」

唐突に背中をポンっと軽く叩かれ、一竜が驚いて振り返ると──

「ご無沙汰だな!」

そこには、屈託のない笑顔を浮かべ、ランニングウェアに身を包んだランサーの姿があった。

「おゎっ!? ランサー!? ……あ、あぁ、久しぶり。」

一竜は突然の再会に驚きはしたが、敵意も戦意も感じさせないその態度に、気が付けばすぐに平常心を取り戻していた。

「そこの…剣士(セイバー)だったか。 アンタも元気か?」

「以前お目に掛かった槍兵(ランサー)ですね。 特に変わりありません。 御身は、間違いなく元気そうですね。」

セイバーも柔らかな微笑を浮かべて返答し、とてもサーヴァント同士の対峙とは思えない様な状況だった。

と、そこへ──

「……あぁっ! あの時の人達!?」

ランサーの後ろから、亜梨沙が自転車を押して現れた。

「あぁ、あの時のお姉さん! セイバーのマスターをしている、私市一竜って言います。」

思えば、一竜と亜梨沙がまともに自己紹介を交わしたのは、この日が初めてだった。

「あ、あのっ…ランサーのマスターの…小鳥遊亜梨沙…です。」

亜梨沙も、たどたどしくも精一杯の挨拶を返し、互いが自然とお辞儀をし合っていた。

「日本人ってのは、こうして頭を下げ合うのが礼儀なんだな。」

「えぇ。それが、相手への敬意として伝えられてきた伝統で御座います。」

日本のサーヴァントたるセイバーが、インド人であるランサーへ"辞儀"という文化の意味を静かに語る──

サーヴァント達も、日常へと少しずつ溶け込み始めていた。

こうして、敵意のない一同は近くのファミリーレストランで腰を下ろし、互いの近況を語らいながら昼食を摂っていた。

「へぇ、ランサーってずっとトレーニングウェアなんだな。」

話題は自然と、召喚されてからのランサーの生活スタイルに及んでいた。

特に、私服が常にランニングに適したスポーティな格好であることについて。

「あぁ! この格好の方が走りたくなった時にすぐ動けて便利なんだよ。 いつ何時でもスタートダッシュ、ってな!」

そう答えるランサーは、美味しそうにカレーライスを口に運びつつ、どこまでも屈託のない笑顔を浮かべていた。

対して、隣に座る亜梨沙は、両手で手元のグラスを包み込む様に持ち、その中の水をじっと見つめていた。

どうにも人見知りが顔を出してしまい、最初の挨拶以降はすっかり静かになっており、ミートドリアにはまだ手も付けていない。

「なぁ亜梨沙、お前もちょっと話してみろよ。 オレもいるし、一竜もセイバーも悪い奴じゃねぇ。 心配いらねぇって。」

ランサーが軽く彼女の肩をポンっと叩き、優しく背中を押す。

「…あっ、うん。 そうだね…。」

会話に加わるのはまだ勇気がいる様だが、それでも彼女には一歩踏み出そうとする姿勢は感じられた。

「じゃあ、小鳥遊さんって普段は何をしてるんですか? オレは叡光大学で史学を専攻してます。」

そうして、一竜はまず自分のことを語り、話しかけやすい雰囲気を作った。

「あっ…(あたし)、宝仙区で歯科事務員をしてます。 あっ、えっと、呼び方は亜梨沙でいいです…。」

亜梨沙も、ランサーに暖かく見守られながら、勇気を振り絞って返した。

「そうなんですね。 じゃあ今日はランサーの街ランにここまで付き合ってたんですか。 後、名前呼びOKってことなら、オレの方が年下ですし、タメ口で全然大丈夫ですよ。 気軽に"一竜"って呼んでください。」

さらに一竜は柔らかな笑みを浮かべながらそう告げ、彼女がさらに打ち解けられる様配慮した。

「…うん。 あっ、ありがとう、一竜くん。」

彼女の表情が少し緩み、ほのかな笑みが浮かんだ。ランサーはそれを見逃さず──

「亜梨沙、やったな! 一歩前進だな!」

またポンっと軽く肩を叩き、彼女の小さな一歩を称えていた。

照れくさそうな彼女の顔は、どこか温かい空気を場に広げていた。

「そういえば、セイバーってこの時代で何か趣味できたか?」

ランサーが今度はセイバーへと話題を振る。

「はい。 (わたし)は、剣術に関する動画の視聴と、ボードゲームに興じております。 戦術の研鑽として、非常に有意義な遊戯です。」

恵茉やアーチャーとも語り合ったその趣味を、セイバーは誇らしげに語る。

「へぇ~! セイバーってやっぱり真面目なんだな! 戦いにも遊びにも全力とは恐れ入ったよ!」

ランサーは感心しきりに頷きながら笑みを見せると、ふと思いついたようにこう続けた。

「んじゃさ、飯が終わったら、ちょっと手合わせしてみないか?」

それはまるで"ちょっとコンビニでも行くか"くらいのノリで出てきた提案だった。

「…えっ?」

当然亜梨沙と一竜は、まるで打ち合わせしたかの様に同時に驚いた。

セイバーは──さっきまでの穏やかな表情から一変し、真剣な眼差しでランサーを見つめ返す。

「ほら、あの時言ったろ? “また次、慣れてきた頃に会ったら闘おうぜ”って。 もちろん、本気の潰し合いって訳じゃねぇよ。 ちょっと手合わせってだけだから!」

ランサーは屈託のない笑顔のまま、かつて交わした言葉をしっかり覚えていることを示す。

「…承知致しました! その勝負、受けて立ちましょう!」

即座に立ち上がりかけるセイバーだったが──

「ちょ、ちょっと待ってくれって! セイバー、まずご飯、ご飯だって! その後からでも遅くないから!」

焦る一竜がセイバーを制止しようと手を伸ばす。

その横で、亜梨沙はまだランサーの急な提案に戸惑いを隠せず、目を丸くしていた。