各陣営がそれぞれの時間を過ごしていたその頃──。
都内にそびえるタワーマンションの一角、轡水の部屋では、窓辺に立ち黄昏れるライダーと、ディスプレイを睨みながらデイトレードとドキュメント作成に勤しむ京介、それぞれが“らしい”日常を過ごしていた。
部屋の中は、いつもの様に薄暗い。 僅かに開けたカーテンの隙間から差し込む陽光と、PCのモニターから漏れる冷たい光だけが、この空間に色を与えていた。
「……京介よ。」
その沈黙を最初に破ったのは、窓の外を眺めていたライダーだった。
「ああ?」
轡水は画面から目を逸らさず、価格変動の瞬きを凝視しながら、声だけで反応する。
「この時代の民には、かの時代の祖国の民には見られぬ、新たな優しさが見られるな。」
その口ぶりには、どこか遠い記憶を懐かしむ様な響きがあった。 表情もまた、母なる海を思わせる様な穏やかさを湛えている。
「……また“民”の話か。」
轡水は、ややうんざりした様に言葉を返す。
どうやらこの手の話は、日々繰り返されているらしい。
聞き流すつもりでいたが、結局いつもの様に、仕方なく耳を傾ける羽目になる。
「もっとも、すべての民が優しいわけではないがな。 人間の本質は悪──それ故にこれは抗い様がない。どの時代にも、例外なく。」
ライダーの脳裏には、日課の散歩で見かけた“現代の荒くれ者達”の姿が過ぎっていた。
故意に通行人にぶつかる中年男性、レジで理不尽に怒鳴るクレーマー、自転車を逆走させながらも悪態をつく子育て中の主婦──
現代に生きる“新しき民”の一部に、彼は心底呆れていた。
「……性悪説か。」
轡水がぼそりと呟いた。
紀元前の儒学者・荀子が説いた『人間の本質は悪である』という思想。
その響きは、ライダーの語り口と重なって聞こえた。
「だが、それでもこの世には確かな“ぬくもり”がある。 困っている者に手を差し伸べる者、老人や怪我人を気遣う目、子供達を見守る地域の大人達──我が時代には希少だった優しさが、この時代には確かに存在している。」
ライダーは、散歩中に出会った幾つもの優しさを思い出していた。
道に迷った高齢者に声をかける若者、バスの優先席から立ち上がり怪我人に譲る学生、下校中の小学生を見守る緑のおじさん、その全てに彼はどこか救われる思いがした。
「他国ではなお戦が絶えず、この国もまた物価高に喘ぐ民が多いと聞く。 それでもなお、人の優しさを手放さぬ者がいる。 …捨てたものではないな、この国も。」
そう言って、彼はティーバッグで淹れた安価な緑茶の入ったティーカップを手に取り、淡く霞んだ空を見上げながら、一口啜る。
「……ふんっ。 上っ面だけの優しさに何の価値があるんだか。」
対する轡水は鼻で笑い、吐き捨てる様に言った。
その視線は相変わらず、マーケットチャートから離れない。
「まぁ、そう言うでない。 この世は神が見ているという。 己が為に人に優しく振る舞うのも、また一つの在り方だと私は思う。」
ライダーは、轡水の冷ややかな態度にも動じることなく、なおも“善”の価値を語り続けていた。
「……結局は自己満足ってことか。」
轡水は、またしてもどこかつまらなそうな表情で言い放った。
「自己満足でもよかろう。 無駄な争いを起こすより、余程建設的ではないか?」
ライダーはそう応じると、わずかに微笑み、再び窓の外へと視線を移す。
その瞳には、どこか諦めを含んだ優しさが宿っていた。
「……くだらない。」
轡水のその一言で、会話はぷつりと途切れた。
彼のトーンに、これ以上言葉を交わす気がないことを悟ったライダーも、それを追うことはしなかった。
「……ふむ。」
そう小さく呟くと、彼は静かに立ち上がり、槍の手入れへと移る。
──この沈黙と距離感こそが、この陣営の“日常”なのである。
一方、その夜のはじまり──
猪狩昌真が所属する古井戸組の一室では、豪奢な酒と煌びやかな肴がテーブルを彩っていた。
一般の手には到底届かぬ高級酒に、目にも鮮やかな刺身の盛り合わせ。
まるで上流階級の宴を模したかの様な光景が広がっていた。
そう、これはアサシンが切り開いた“酒の流通ルート”のシノギによる莫大な利益を祝した、古井戸組全体の祝勝会だった。
組員達は皆、興奮冷めやらぬ様子で歓喜に沸き、杯を重ねては豪快に笑い、時には肩を組んで踊り出す者まで現れる有様。
「旦那、やはりアンタは伝説の名に違わぬ男だ!」
所謂“お誕生席日”と呼ばれる席にて、古井戸組長はアサシンのグラスに酒を注ぎながら、顔を綻ばせ、朗々と笑った。
「へっ、組長さんよ。 俺様だってな、それなりに現代の流儀に合わせる努力をしてたんだぜ?」
アサシンは、注がれた酒の入ったグラスをゆっくりと回し、不敵な笑みを浮かべ、自らも古井戸組長のグラスに酒を注ぎ始めた。
「こうして迎え入れて貰った礼ぐらいはさせてくれや。 オタクらの世界で言う“義理人情”ってヤツ、だろ?」
「ハッハッハ! ギャングの帝王に“義理人情”なんて言われて光栄だ! アンタは立派に義理を通してくれたよ!」
アサシンによって注がれた酒を掲げ、二人は笑顔で乾杯を交わした。
「はは…。 親分もすっかり親父っさんと仲良くなっちまってなぁ。」
少し離れた場所から眺めて呟く猪狩の口元には、思わず笑みが浮かんでいた。
それからしばらくして──
祝勝会の喧騒を背に、猪狩とアサシンは夜風に当たるため、組の縁側に身を移していた。
「……親分よぉ。」
静寂の中、猪狩が先に口を開いた。
「ん?」
アサシンは葉巻を吹かしながら、いつもの不敵な笑みで猪狩の方を振り向く。
「こうしてる間にも、聖杯戦争は動き続けてる訳だが……アンタは、聖杯戦争についてどう考えてんだ?」
猪狩の問いには、単なる興味以上のものが込められていた。
それは、日々の中で芽生えた“覚悟”と“迷い”の両方だった。
アサシンは葉巻をゆるりと燻らせ、目を細める。
「へへっ……昌真よぉ。 お前さん、俺様をなんだと思ってる?」
問いに問いを返すアサシンの瞳は鋭く、まるで試すかの様だった。
「……?」
その言葉だけなら、どこか軽薄で信じがたいものに聞こえるかもしれない。
だが、猪狩の胸の奥に去来したのは、確かな“信頼”だった。
「俺様としちゃあな、どの陣営が来ようが対応出来る程度の準備はしちゃいるぜ?」
そう言ってアサシンは懐から一枚の紙を取り出し、猪狩に手渡す。
「これは……見回りルートのコピー! それと、この印はなんだ?」
紙には、猪狩の見回り範囲を示す地図が写されており、所々に赤ペンで丸や注意書きが記されていた。
“Caution”、“advantageous”などの単語が、まるで何かの暗号の様に散りばめられている。
「この地図を元に、警戒すべき場所と有利な拠点を洗い出してたんだ。 ──“6時間で木を切るなら、そのうち4時間は斧を研ぐ”ってな。 要は段取りが大事なんだよ。」
アサシンが言うその言葉は、アメリカ合衆国第16代大統領、エイブラハム・リンカーの名言だ。
「……親分。 アンタ、流石抜け目ねぇな。」
感嘆とも尊敬ともつかぬ声が猪狩の口から漏れ、無意識に拳を握りしめていた。
しばしの静寂の後、ふと思い出した様に猪狩が口を開く。
「そういや、親分……アンタの聖杯に対する願いはなんだ?」
その問いに、アサシンは一瞬だけ目を伏せると、葉巻をポケット灰皿で消し、夜空を見上げながら、哀愁漂う微笑で静かに口を開いた。
「……若い頃にかかった梅毒を、なかったことにしたい。」
「……えっ?」
アサシンが語ったのは、ギャングとしての大きな野望ではなく、過去に自身を蝦んだ病気のことだった。
あまりに意外すぎる願いに、猪狩は思わず間の抜けた声を漏らす。
「意外だったか? 昌真、俺様の死に様、知ってるだろ?」
「ああ……まぁな。」
アサシンの生前、数々の悪行とカリスマでシカゴを支配し、"アンタッチャブル"とまで言われていた。
だが、晩年は梅毒による痴呆で悲惨な末路を辿ったことも、猪狩は知っていた。
「俺様の人生はよ、派手で、強欲で、楽しくて……好き勝手にやってきた。」
「密造酒、売春、賭博、暗殺、抗争……アンタはまさに“ギャングの帝王”だったよな。」
「だがよ、最期の最期にゃ、梅毒に侵されてボケちまった……惨めだったぜ。」
月光に照らされた笑顔には、いつもの様な余裕も虚勢もなく、どこか哀愁が漂っていた。
「俺様は最後まで──」
やがて、アサシンの口からこう告げられる──
「“アルフォンス・ガブリエル・カポネ”でいたかったんだよ。」
猪狩が知っていた“アサシン”の真名、それは20世紀アメリカの犯罪史に名を刻むアル・カポネその人であった。
だが、彼はただの悪党ではなかった。
慈善活動に身を投じ、貧しい子供達や困窮者に施しを与えたという逸話もまた、彼の“真実”の一部なのだ。
「……そうか。」
猪狩の拳が静かに、だが確かに力を帯びていた。
やがて息を吐き、まっすぐにアサシンを見据える。
「なら……俺がアンタの願いを叶えてやる。 親分。」
その瞳には、迷いのない決意と忠誠が宿っていた。
アサシンは、しばらく猪狩の顔を見つめた後、口元にいつもの笑みを浮かべた。
「ハッ……頼もしいこった。」
そのまま彼の肩を軽く叩き、葉巻をふたたび取り出す。
「……さぁ、そろそろ宴に戻ろうぜ。」
「だな! しんみりした後は、また飲み直して明日への活力にするってもんだ!」
夜風の中、二人の背中はまっすぐに組の本拠へと戻っていく。
こうして、アサシン陣営の絆は、より一層、深く結ばれたのだった。
同じ夜──
人気のない湾岸沿いの巨大な空き倉庫の一角で、鉄製のテーブルに山の様なファストフードの残骸が積み上がり、重い油の匂いが空気にこびりついていた。
「マスター……オレ……マダ……ハラヘッタ……!」
骨だけになったチキンをかじりながら、バーサーカーはまだ飢えが癒えないと訴えていた。
冨楽謙匡はその姿に溜め息をつき、目元を押さえながら、疲労困憊の顔で答えた。
「お前さぁ……少しは我慢ってもんを覚えてくれって。 こっちはその食費で生活費が火の車なんだっつーの。 出禁になった食べ放題は数知れず、沢山のファストフード店の裏口で恥を忍んでペコペコと頭を下げて……やっと集めた廃棄や残飯だってのに……。」
バーサーカーに苦労を訴える冨楽の目には隈ができ、頬もげっそりとこけていた。
だが、バーサーカーは一向に意に介さない。
「ハラヘッタ!! ハラヘッタァ!!」
そのまま彼は、両手にチキンの骨を持ち、ドンドンとテーブルを太鼓の様に叩きだした。
「あー、もう…。」
まるで駄々っ子の様な要求に、冨楽はもう限界といった表情で頭を抱え込んだ。
「(…バーサーカーが悪い奴じゃないのは分かってるんだよ。 根っこは単純で、悪意も敵意もない…。 だけど、その異常な食欲に四六時中付き合わされるのは……正直、キツい……。)」
椅子に深く腰かけ、冨楽は遠くを見つめていた。
そこへ、不意に背後から、どこか人を食った様な声音が投げかけられる。
「おやおや? 冨楽様、やっと見つけましたよ。 何やら大変そうですねぇ?」
軽やかな声と共に姿を現したのは、シリル・ファラムス。
噂で”巨人が倉庫に入った”と聞き、様子を見に来たのだ。
「……えぇ。 どっかの誰かさんのお陰で、こっちはこんな状態ですよ! まったく。」
冨楽はシリルに睨みを向けながら、皮肉たっぷりに吐き捨てる。
「まぁまぁ、そんなお顔なさらずに。 バーサーカーの世話、お疲れ様で御座います。」
冨楽は何も返さず、深く息を吐きながら目を伏せた。
「ですがねぇ……その苦労、決して無駄ではないかもしれませんよ?」
いつもの軽い調子の声で、シリルは冨楽の隣に歩み寄り、肩に手を置き語り出した。
「バーサーカーの力なら、貴方の信じる"正義"の為にも使えるかもしれませんよ?」
その言葉に、冨楽の眉がピクリと動く。
“正義”──シリルの口から、最も似つかわしくない単語だった。
「…? どういう?」
「あはは、そんな警戒なさらずとも。 冨楽様は、正義を大切にされるお方でしょう?」
冨楽の過去を、性格を、思想を── 来日以前に綿密に調べ尽くした上での“狙い撃ち”だった。
かつての彼が”イキリオタク”と揶揄されながらも理想を捨てなかった男であることも、面倒見がよく、機転が利くことも、シリルはなにもかも知っていた。
「ですが……“正義”とはただの理想ではありません。 “力”が伴わなければ、無力でしかない。 もし冨楽様の正義が“本物”であるならば──“力”で貫いてしまえば良いのです。」
目に妖しく光を宿しながら、シリルはゆっくりと言葉を紡ぐ。
その表情を、冨楽は何も言わず見つめるだけだった。
「まぁ、これはただの独り言ですけれどねぇ。……ではでは、引き続き頑張ってくださいね。」
そう残し、シリルはいつもの軽い足取りで倉庫を後にして行った。
「……正義、か。」
冨楽はその背中を見送り、ふと呟いた。
隣では、流石に騒ぎ疲れたのか、バーサーカーがしゃぶり尽くした骨を静かに齧っていた。
「アジ……シネェ……。」
冨楽はしばらくその様子を眺めたあと、静かに夜空を見上げた。
この先、自分達がどこへ向かうのか、その答えはまだどこにもなかった。