一方、その頃──
日々の調査と事務仕事に追われ、ついに疲労が勝り倒れたロード・エルメロイⅡ世は、ソファで寝転がり、深い眠りに落ちていた。
机の上には資料や食事の空き容器が散らばったままの様子から、どうやら倒れた直後にソファへ強制送還されたらしい。
「師匠……お布団を掛けますね。」
静かに寝息を立てるロード・エルメロイⅡ世の目元にはアイマスクがかかり、さらにグレイがそっと毛布を広げ、その肩口までかけてやった。
「グレイ、兄上がすまないね。」
様子を眺めていたライネスが、小さく肩を竦めて言う。
「いえ。 やると決めたら徹底的──それが師匠の性格ですから。 拙も承知の上です。」
「そうだね。 ……その所為で毎度アクシデントを招くのが落ちだが。」
ティーカップを傾けながら、ライネスはからかう様に笑う。
「先程も師匠がおっしゃっていましたが……一般の方々が直接巻き込まれるこの新制度、廃止へ向けた運動には相当な負担が掛かるでしょう。 だからこそ、休み休み活動していただかないと。」
グレイの声音は、いつになく深刻だった。
これまでロード・エルメロイⅡ世と共に解決してきた事件では、彼の魔術回路解析が何度も功を奏してきた。 だが、今回の件は一般人がマスターを代行するという異例中の異例──
難易度は跳ね上がっていた。
「……そうだな。 兄上が目を覚ましたら、君からしっかり言ってやってくれ。」
軽く笑ったライネスは、ティーカップを小テーブルに置き、立ち上がると伸びを一つした。
「グレイ、私は少し出かけてくる。 兄上のこと、頼むよ。」
「え? どこへ行かれるんですか?」
「……まぁ、ちょっとした散歩さ。 無論トリムもお供するから心配ない。」
不敵に笑い、詳細を語らぬままライネスは、月霊髄液の従者であるトリムマウが控える試験管を手に取ってグレイに見せた。
やがてその試験管を鞄に仕舞うと、それを手に部屋を後にした。
残されたのは、ソファに横たわるロード・エルメロイⅡ世と、その傍らで見守るグレイの二人きりだった。
……と、そこで。
「イッヒッヒッヒッヒッヒ! これでロードと二人っきりになれたなぁ!」
「アッド……!」
さっきまで静かにしていたアッドが、鳥籠の中から甲高い声で茶々を入れる。
「今なら誰も見てないぞ! チャンスだろ? 俺には布でもかけときゃいい! さぁ、どうする?」
グレイは無言で鳥籠の取っ手をガシッと掴む。
「ま、待てグレイ! またか!? 冗談だって! 悪かったって!」
アッドの必死の懇願も空しく、いつもの“お仕置き”が始まった。
──ガコンッ! ガコッ!
容赦ない揺さぶりに、アッドは鳥籠の中でシェイクされる。
「ぐぇぇぇぇぇぇっ! やめてー! だから悪かったってー!」
部屋中に金属が擦れ合う様な悲鳴が響くが、それでもロード・エルメロイⅡ世が目を覚ますことはなかった。
それから、程なくして──
浅之区の名所として知られる浅之寺は、今日も観光客で賑わっていた。
境内の参道には外国人の姿が多く、その中で一際目を引く屈強な男が、屋台の芋羊羹を齧っていた。
ミルコ・ボテッキア──かつてアサシン陣営を監督していた男である。
古井戸組長から『帰任前に日本を楽しむなら、浅之寺くらいは行っておくと良い。 趣があるぞ。』と勧められ、彼はその言葉に甘えて観光を楽しんでいた。
「(古井戸組への餞別の手土産も買えた。 これで心置きなく帰任出来るな。)」
右手の紙袋には、組長お気に入りの日本酒と、組員分の芋羊羹が詰まっている。
これが彼なりの古井戸組への最後の気持ちの品だった。
そんな折──
「これはこれは、ミスター・ボテッキア。 こんな場所でお会いするとは奇遇ですね。」
声の主は、単独で行動しているライネスだった。
「……む、エルメロイの姫君か。 この様な所を一人で歩かれていたのか? ロード・エルメロイⅡ世はどうした?」
「兄上は疲労の果てに倒れてしまいましてね。 内弟子が看ていますので、暇を持て余した私はこうして散歩中、と言う訳です。」
ミルコの問いに、ライネスは軽く笑いながらも淡々と経緯を述べる。
「……そうか。 彼も真面目な人間故、いつも疲れている様に思えたが、いよいよ倒れてしまったか。 心中察する。」
彼もまた、時計塔でのロード・エルメロイⅡ世の多忙ぶりを知っていた。
いつかこうなるだろうという予感もあったのだろう。
「お心遣いに感謝します。 それにしてもミスター・ボテッキア。 貴方が見ていたアサシン陣営が全滅した割には、随分と楽しそうですね?」
「ああ。 マスターを務めていた男の組長が、日本を堪能することを薦めてくださってな。 この荷は、その礼と餞別だ。」
ライネスは、その言葉を聞きながらも、僅かに探る様な視線を向ける。
「なるほど。 反社会的勢力の長でありながら懐が広い御仁とは。 ……もっとも、ミスター・ボテッキアも、この“新制度”からは早々に脱落してしまいましたが。」
彼女が踏み込んだのは、この新制度に対するミルコの考えだった。
「否定はせんが、私もこの”新制度”を全面的に肯定している訳ではない。 腑に落ちない点も多い。」
「ほう、“腑に落ちない”と言いますと?」
「初会議でもロード・エルメロイⅡ世が述べたことだが、この制度は斬新であると同時に、確かに多くのリスクを孕んでいる。 あまりにもロード・バリュエレータらしくない。」
ミルコは歴史の行く末を見届けることを楽しむ男だが、同じく民主主義を掲げ歴史を重んじるイノライ・バリュエレータ・アトロホルムが、これほど強引な策を取ったことに違和感を覚えていた。
「確かに……。 私も彼女を知る限りで考えてみるも、そこまで踏み切った理由は不思議に思っていました。」
「やはりそう思うか。 まあ、帰任したら様子を探ってみよう。 まだ反対派に回ると決めた訳ではないがな。」
そう告げるミルコの声音には、冷静さと探究心が混じっていた。
「承知しました。 お楽しみのところ、時間をいただき感謝します。 それでは──」
「姫君。 少し良いか?」
ライネスがその場を後にしようとすると、ミルコが彼女を引き留める。
「話に付き合ってくれた礼だ。 そこの芋羊羹は中々味わい深い。 一つご馳走しよう。 茶請けにも合うだろう。」
「……ミスター・ボテッキア、感謝いたします。」
こうしてライネスは、単品の芋羊羹と手土産用の包みを抱え、浅之区を後にした。
それから更に時が流れ──
要区の一角に佇む高級ホテル。
そのロビーに併設されたカフェスペースで、バーサーカー陣営の監督たる魔術師、シリル・ファラムスが、ゆったりとランチを楽しんでいた。
磨かれたガラス窓越しに見えるのは、昼下がりの都市の喧騒と、差し込む陽光の揺らめき。
スープを口に運びながら独り含み笑いを浮かべ、シリルが窓の風景を見ていると──
「……おやおや、これは面妖な。」
そう含み笑いを見せ呟く彼の目線の先には、不敵な笑みを浮かべたライネスが立っていた。
何を思ったのか、シリルも同じく不敵な笑みを返し、軽く手を招く。
やがて二人は、窓際の小さなテーブル越しに向かい合った。
「ご機嫌よう、ファラムス殿。 随分と上機嫌じゃないか。」
「ふふふ……エルメロイの姫君こそ。 まさか、ロード・エルメロイⅡ世の差し金で来たのですか?」
言葉の端々に駆け引きの香りが漂う。
不穏な空気と、年齢の近さ故の遠慮のなさが、妙な親密さすら感じさせた。
「いやいや、私は只の散歩の途中で君の姿を偶然見かけただけさ。 それに、聖杯戦争には手出しするつもりもないよ。」
彼女の言うことは、強ち嘘でもない。
だが実際には、ロード・エルメロイⅡ世とメルヴィンとの画面通話を、彼女はちゃっかり盗み聞きしており、その過程でシリルの居所も大凡察していたのだ。
「そうですかぁ。 ならば……何故こうして、態々私と話をしたがるのでしょう?」
シリルの問いかけには、薄い笑みと僅か猜疑が混じっている。
それに対しライネスは、いつもの人を食った様な笑顔を崩さぬまま、軽く肩を竦めた。
「まぁ、知的好奇心──ってところかな。 兄上以外の魔術師達が、この“新制度”で何を考えているのか、ちょっと興味があってね。 先程も、偶然会ったミスター・ボテッキアから色々聞かせて貰ったところだよ。」
「ほぉ……流石はエルメロイの血筋。 好奇心の化身ですね。 しかし、それを知ったところで、貴女に何の得があるのです? 本当にロード・エルメロイⅡ世とは無関係だと?」
「まさか。 何度も言うが、私は兄上の活動には基本的にノータッチ。 言うなれば、只の傍観者さ。」
只の傍観者、これも強ち嘘でもない。
実際にも、彼女はロード・エルメロイⅡ世が慌ただしくしているのを楽しんでいた節もあった。
「……ふふ。 信じ難いですが、まぁ良いでしょう。 ただし、深くは語りませんので、そのつもりで。」
「おぉ、それで充分だ。 “新制度”について何も知らずに否定するのは、私としては性に合わない。 だから頼むよ、先生。」
──こうしてライネスは、シリルから僅かながらも情報を引き出すことに成功した。
嘘と真実を巧みに織り交ぜて場を作るそのやり口は、シリルにも劣らぬ腹芸である。
だが当然、相手の警戒は完全には解けていない。
二人の駆け引きの様な会話は、外の喧噪とは無縁の、落ち着き払ったカフェの空気の中で静かに続いていった。
尚、この会話は二人だけのものではなかった。
シリルの私物に仕込まれた盗聴器が拾った音声を、メルヴィンの宿泊先にある受信機が捕らえていたのである。
「……おっ、この声はライネス嬢じゃないか。 相変わらず君も、中々に良い性格をしているねぇ。」
やがてメルヴィンの口元が歪み、愉快そうに耳を傾けた。
この一連のやり取りから、“新制度”廃止の為の手掛かりが掴めるかもしれない──
そう確信しながら、ライネスとメルヴィンは、それぞれ次の一手に向けて動き出すのだった──