それから、ほんの少し時を戻そう──
冨楽に焼肉のタレを浴びせられた纐纈は、幻影魔術の要である“気配の撹乱”を失い、戦況は一気に不利へと傾いていた。
「キャスター、マズい! 一気に不利になっちゃったよ!」
「士、確かにこれは流石にマズいね。こうなったら避けるしかないよ!」
慌てる纐纈とは対照的に、キャスターは冷静な口調で指示を飛ばす。
「させるか! バーサーカー、匂いを辿れ!」
「グオォォォッ!」
タレの匂いをまとった纐纈へ、バーサーカーが棍棒を振り下ろす。
「ひいぃ!」
迫る衝撃波を必死に回避し続けるが、纐纈の息は次第に荒くなっていた。
「(あぁ……こりゃいよいよ追い込まれてきちゃった……! でも、一か八か、もっかいやってみよう!)」
藁をも掴む思いで、纐纈はバーサーカーに幻影魔術を仕掛けた。
「……フエタ! ドレダ……?」
魔術を受けたバーサーカーの目からは、纐纈が四人に増えていた。
「バーサーカー、匂いを嗅げ! 本物は一つだけだ!」
しかし、冨楽の冷静かつ強い指示が、バーサーカーの意識を取り戻させた。
「……ソウカ! グオォォォ!」
鼻を頼りに本物を特定したバーサーカーが、渾身の一撃を振り下ろす。
「……あちゃ〜、やっぱ効かないか!」
「士、よっちゃんも機転が効く! バーサーカーを上手く指示出来るから、油断は出来ないよ!」
彼女の声を受けると、纐纈がバーサーカーの渾身の縦振りを、跳ねる様なバックステップで回避するも──
ガッ──
「ふぐぅっ!?」
不運にも、棍棒が地面を抉った衝撃で跳ねた土塊が鳩尾を直撃した。
「うっ! 士!」
「うぅ… これねぇ、結構痛いし苦しいんだよねぇ。 息がしづらいよ…。」
僅かばかり取り乱し始めたキャスターに、纐纈は学生時代の空手やキックボクシングを思い出したかの様に、尚も軽口を交え語った。
「バーサーカー、今だ! 横振りで吹き飛ばせ!」
冨楽の声に呼応し、バーサーカーの横薙ぎが纐纈を襲う。
「士、なんとか避けられるかい!?」
鋭い風切り音が山中に響く中、纐纈は身体を倒しこむ様に棍棒を回避し、そのまま仰向けに転がって両手で後頭部を庇った。
「セーフぅっ! 死ぬかと思ったよ…。」
「ふふっ。 士、キミって奴は……。」
間一髪の回避に、纐纈もキャスターも思わず笑みを溢していた。
無論、それが冨楽の癇に障ったことも、言うまでもない。
「さっきから妙なことばかり……もういい、バーサーカー、叩き潰せ!」
「グオォォォ!!」
バーサーカーの縦振りが、再び纐纈を襲いだした。
「あひゃぁっ!」
しかし、お世辞にも格好がつくとは言えない声と共に、纐纈はその場でゴロゴロと転がり、その縦振りを回避する。
「まだマズい。 このままじゃ士が益々不利だ。」
バーサーカーが何度も振り下ろし、その度に纐纈がゴロゴロと転がり避ける。
「士!」
「んん?」
そんな状況を長く見たキャスターが、纐纈に声をかけた。
「今の光景、なんだかアザラシみたいでシュールだよ!」
「うん、それは俺がよーく分かってるよー! ちょっと自分でも何をやってんだろって思ってた!」
こんな状況ながらも、この二人は軽口をぶつけ合っていた。
そんな調子ではあるが、纐纈は大真面目でかつ必死である。
「こいつら本当にさっきからイライラするなぁ! バーサーカー、構わず振り続けろ!」
冨楽の声と同時に、バーサーカーが大きく振りかぶった瞬間──
「ここっ!」
転がりながら纐纈は砂を掴み、バーサーカーの顔へと投げつけた。
目深に被った熊の毛皮の隙間から覗く眼に砂が入り、巨体が呻き声を上げる。
「グガァッ!?」
「バーサーカー! 大丈夫か!?」
混乱するバーサーカーの隙を突き、纐纈はキャスターのもとへ駆け寄るが、度重なる転がりによって、まるでバラエティーのバットで目回しの様に目を回していた。
「あぁ……気持ち悪い……フラフラするぅ……!」
「士、よく頑張った!」
キャスターは安堵の笑みで彼を支えると、ふと思い出した様に問いかけた。
「ところで士、ずっと不思議に思ってたんだけど……何故ジャケットを脱がないのかい?」
「……んえ?」
「ジャケット。」
そう、そもそも匂いのするものを脱ぐのが先決だったことを、纐纈は完全に見落としていた。
「はっ、そうか!! キャスター、もっと早く教えてよぉ。」
「ふふふ、正直ちょっと試してたんだ。」
二人はさぞ普段の様に笑いながら軽口を叩き合った。
「……っておい! さっきから余裕ぶっこきやがって!」
苛立ちを押し殺せなくなった冨楽が吠える。
その横で、先程まで呻いていた筈のバーサーカーを見て纐纈が素っ頓狂な声をあげた。
「あれあれあれ!? もう目、回復してんの!?」
「俺の魔術は“修復”だ。 バーサーカーの肉体なんていくらでも治せる!」
冨楽の簡易魔術によって、バーサーカーの瞳は戦闘可能な輝きを取り戻していた。
まるで高回転のエンジンが息を吹き返したかの様に、バーサーカーは鼻息を荒らし、巨体を低く構える。
「キャスター、これで益々勝ち目がなくなっちゃったよ?」
「確かに……でも、私にも策がある。」
「おっ、奇遇だねぇ! 俺もダメ元で一つ考えててさぁ!」
軽口を叩き合う二人の口元には、妙に落ち着いた笑みがありながらも、その裏には練られた狙いが潜んでいた。
やがて、二人は小声で作戦会議を始める。
見た目は談笑、実際は戦闘の段取りである。
当然、その余裕ぶりに冨楽が黙っていられる訳がない。
「だから何でそんな呑気なんだよぉ! もういい、どうせ疲れてんだろ! バーサーカー、今なら押し切れるぞ!」
「グオォォォ!」
疲労という言葉を知らぬ巨体が、単純かつ純粋な怒りで更に士気を上げた。
キャスター陣営も、密談を終えた様である。
「士、頼んだよ。」
「了解!」
掌を合わせ、纐纈が力強く頷き、そのまま真っ直ぐバーサーカーへ突進していく。
「おいおい、わざわざ真っ直ぐ向かって来るのか? 舐めやがって!!」
苛立ちに駆られた冨楽の苦言が、機関銃の様に一向に止まらない。
だが纐纈は突然足を止め、両腕を大袈裟に広げた。
「あら、そう思っちゃうぅ? ごめんねぇよっちゃん! だってさぁ、そこの木偶の坊ちゃん大振りすぎて避けるの楽だからさぁ、つい余裕こいちゃったぁ! 許してちょんまげ〜♪」
口調は軽く、動きは更に芝居がかっている挑発とパフォーマンスを同時にこなす姿は、敵を煽る道化そのものだった。
しかし、当のバーサーカー本人は理解が出来ておらず、首を傾げていた。
「マスター……アレ、ワルグチ……?」
「そうだよ! お前完全に舐められてんぞ! ぶっ潰せ!」
「グオォォォ!」
理解した瞬間、巨体が咆哮とともに猛攻へ転じる。
しかし纐纈は、その全てを持ち前のフットワークで躱していた。
蝶の様に舞い、蜂の様に刺──さず、今は只翻弄する。
その背後では、キャスターが幾重にも魔法陣を展開していた。
弓、槍、中華刀……あらゆる武器が空中に浮かび上がる。
「よし、こちらのものだ。」
一斉に放たれた武器が、夢中で振り回すバーサーカーへ次々と命中した。
冨楽はその度に修復魔術で回復を施すが、息は次第に荒くなっていった。
「はぁ、はぁ……なんだよコイツら……チクチク、チクチクと……!」
「じゃ、次はこれね!」
そこで流れを変えるかの様に、纐纈が幻惑の魔術を発動した。
バーサーカーと冨楽の目の前に、複数の纐纈の幻影が現れる。
「ウゥ……ドレ……?」
「匂いだ! 惑わされるなよ!?」
冨楽の指示に従い、バーサーカーは左手でタレの匂いを辿り掴み取る──筈だった。
——スカッ。
そこには、空虚な感触と、脱ぎ捨てられたジャケットだけがあった。
「なっ……どこ行きやがった!?」
バーサーカーに続き、同じく騙された冨楽も、苛立ちつつも慌て出した。
だが、その冨楽のすぐ近くには、纐纈がいつのまにか急接近していた。
「隙ありぃ!」
纐纈が冨楽の頭を掴むと、学生時代に叩き込まれた格闘技と、動画で覚えた近接制圧術を織り交ぜ、素早く足を払った。
「えっ!うわっ!」
冨楽が後ろに倒れると、体重移動を利用し、全体重を左手に乗っけた纐纈が、冨楽の頭を押さえつけながら後頭部を地面に叩きつける。
——ゴツンッ。
「ぐぅっ……!」
不意に受けた後頭部の激しい痛みに、冨楽の脳味噌が揺らされ、意識を失いかけた。
そして、その腕を纐纈が素早く取ると、腕ひしぎ十字固めで動きを封じ込めた。
「キャスター、準備オッケー!」
「士、ナイス!」
嬉々として声を掛ける纐纈に、キャスターも笑顔と共にサムズアップで応じた。
冨楽が動けなくなったことに狼狽えたバーサーカーが、キャスターの方を向く。
「これで終わりにしようか、バーサーカー。 いや……」
一瞬の沈黙の後、余裕の笑みを浮かべたキャスターの口からこう告げられる──
「兀突骨。」
「!?」
その言葉に、纐纈と冨楽が大きく反応した。
「なっ……いつの間に真名を……!?」
「あぁ! 言われてみりゃ確かに、あの巨体と野生味、兀突骨そのものだ!」
冨楽の表情に焦りの表情が浮かぶ中、三国志に関心のある纐纈が、引っ掛かるものが取れたかの様に言った。
「その通り。 藤で出来ている。 硬いうえに、油を染み込ませて水にも浮かぶが、その分燃えやすい……さっき火を嫌がっていたのも納得だろう?」
笑みを浮かべながらも、冷静に分析を並べる。
これこそが、軍師としてのキャスターの本気の姿である。
「グゥ……ヒ……キライ……!」
「恐怖を思い出させる様で悪いけど、これを見せよう──」
明らかに顔が引き攣るバーサーカーを余所に、キャスターの固有結界が発動する。
「……!?」
光が止み、視界が晴れた時──
バーサーカーの眼前には、一面に広がる緑溢れる大草原が広がっていた。
草の穂が風に揺れる度、陽光が波の様に煌めく。
「戦とは、只突撃するだけじゃない。」
草原の中央に立つキャスターは、瞼を閉じ、頬に風を受けながら微笑を浮かべていた。
両の腕を緩やかに広げ、まるでこの景色そのものを支配するかの様に声を放った。
「無闇に動かず、機を窺うのもまた戦のうち──」
その言葉に呼応する様に、風が強く吹き抜け、バーサーカーの頭を覆う熊の毛皮が大きくはためいた。
「そして、今──機は熟した。」
キャスターの瞳が開き、笑みが鋭さを帯びる。
「──火計。」
その一声と同時に、遠くの空から無数の火矢が降り注いだ。
赤い流星群のごとく、空を裂き、バーサーカーを包囲する。
「グアァァァァ!!」
灼熱が迫る中、巨体の戦士は本能的な恐怖の咆哮をあげていた。
それでも、その闘志はまだ死んでいない。
バーサーカーは、炎が身を包む中、キャスターの元へ駆け寄る。
だがキャスターは構わず、左手に新たな炎を集束させた。
炎は渦を巻き、やがて龍の輪郭を象り、咆哮するかの様に顎を開く。
「これはおまけさ。」
放たれた炎の龍は空気を焦がし、一直線にバーサーカーへ突進した。
その瞬間のキャスターは、どこか満ち足りた微笑を浮かべていた。
「ヌガァ! ヒ……イヤダァ!」
龍を象った炎が直撃し、燃え上がる巨躯が後退り、そして踠き苦しむ。
それはまるで、駄々をこねる子供が泣き叫ぶ様な有様だった。
「バーサーカー!!」
冨楽のバーサーカーを案ずる叫びが、炎の轟音の中に溶ける。
固有結界が解除され、黒焦げになったバーサーカーが、力のない声を上げて佇んだ。
「中々の強敵だったよ。」
キャスターは前髪をかき上げ、淡く苦笑を浮かべた。
「まぁ、キミの嫌いな火で止めを刺すことになったのは……少し複雑だけどね。」
力を失ったバーサーカーは、倒木の様に後ろへ倒れ込んだ。
だが、その先には冨楽を押さえ込む纐纈の姿があった。
「!! 士、倒れるよ! 避けるんだ!」
「んえ? あぁっ!?」
纐纈は慌てて冨楽を解放し、その場を飛び退いた。
だが冨楽は後頭部と腕の痛みで動きが鈍り、避けきれない。
「! バーサーカー!!」
ドシーン──!
纐纈は横っ飛びで辛うじて回避したが、冨楽は430kgの巨体の下敷きとなった。
「キャスター!」
「士!」
二人はそれぞれ走り寄り、ハイタッチで勝利を分かち合う。
その最中、冨楽はバーサーカーの下から地面を這う様にして脱出していた。
途轍もない重さに圧されて悲鳴を上げるその身体は、見るからに限界を迎えていた。
「バーサーカー……バーサーカー!!」
力を振り絞った冨楽が呼びかけると、巨体を包む金色の光が揺らめく。
「マタ……ヤカレタ……。 ヤッパリ……ヒ……キライ……。」
「バーサーカー……ごめんよ。 こんな最後にさせちゃって……。」
悔いながら次第に声が弱くなるバーサーカーに、冨楽が必死に声を掛けた。
「デモ……マスター……。 イママデ……ウマイノ……クエテ……タノシカッタ……。」
バーサーカーの食欲に疲弊しながらも、面倒見の良い冨楽は確かにずっと諦めずにその我が儘に答えていた。
それが、バーサーカーにとっては楽しいひと時だったのもまた事実である。
「マスター……ジャアナ……。」
そう言い残し、規格外の巨人は光と共に消えた。
冨楽は黙したまま、その最後を見届けた。
「……よっちゃん、動ける?」
絶縁したとは言え、旧友であったよしみとして纐纈が手を差し伸べるも──
「やめろ……! 死んでもお前の手なんて借りねぇよ! 自力で立ち上がってやる!」
手を払ってでも強がって出す声とは裏腹に、その体は誰が見ても満身創痍だった。
「でも、せめて救急車くらいさぁ──」
「士、仕方ないよ。 よっちゃんはどうしてもキミを許せないのさ。」
キャスターは肩を竦め、スマートフォンを取り出す纐纈の右手を抑え、その行動を制した。
「……まぁ、そうだよね。」
そして二人は冨楽を残し、その場を後にした。
──こうして戦いの幕が下りた。
それから少し歩いた頃──
考え事をしていた纐纈が口を開く。
「……キャスターさぁ。」
「ん? どうした?」
これに対し、優しい顔のキャスターが振り向いた。
「さっきの話の続きなんだケドさ、俺って”おいた”した身だよ? キャスターも、『女性にとっては一生残る』って言ってたし、そもそもキャスター自身も、『自分の性別なんて忘れてしまったよ』ってよく言うケド、ぶっちゃけ結局女性でしょ?」
纐纈が考えていたのは、自分の愚かな過去を知ったキャスターに対してのことだった。
それでも、キャスターはまだ優しい顔で聞いている。
「そんな俺がマスターなの、嫌じゃなぁい?」
やがて、キャスターがしばし彼を見つめ、微笑みながらこう語る。
「確かに、その事実は消えないし、士もこの先も背負って行くべきさ。 だけど、私は過去のキミなんて知らないし興味もないよ。」
「んえっ!?」
纐纈は、キャスターの予想外の返答に驚いていた。
やがて彼女は、得意げな笑みで手を広げ、纐纈へと近づき、更にこう語る。
「私は、今のキミが気に入っているのさ。 健気で、ノリが軽くて、愉快な──そんな士がね。」
彼女の答えは率直な意見だった。
「……キャスター。」
その言葉を聞き、纐纈は自分の肩に手を置くキャスターを見つめると、次第に安堵の笑顔を浮かべていた。
「さぁ、 “バーチャルガイ”を買いに行くんだろう? そろそろ行かないと、売り切れちゃうかも知れないよ。」
「ははっ、そうだったね! 急げば間に合うかも!」
そう、これが当初の二人の目的だった。
親指を指して行先を示し進むキャスターに、纐纈も続けて走って着いて行き、二人は談笑しながら中古ゲームショップへ向かうのだった──