あれから更に幾ばくかの時が過ぎ──

街には強い日差しが照りつけ、季節は初夏を迎えていた。

この日、一竜は叡光大学にて文学部共通科目の講義に出席していた。

冷房のガンガン効いた教室の中、教授がホワイトボードに板書を重ねながら淡々と講義を進める。

一竜もノートを取りながら耳を傾けてはいたが、その筆はしばしば止まり、思考は別の方へと逸れていった。

──そう、バーサーカー陣営が脱落してからというもの、聖杯戦争に関する動きは目に見えて静まっている。

「(……あれから随分と平和だな。 凛さんには『いつ何が起こるか分からないから、絶対に油断しちゃダメよ!』って言われてるけど……確かに、知らない内に戦闘が始まってもおかしくない頃合いかもしれない。)」

窓の外に広がる青空に視線を泳がせながら、一竜の集中は途切れがちになる。

「(キャスター陣営とライダー陣営は、まだ直接顔を合わせていない。 特にライダー陣営は情報が全く入らない。 キャスター陣営は好戦的ではない、って凛さんは言っていたけど……バーサーカーに勝った実力者だ。 侮れないよな。)」

実際、ロード・エルメロイⅡ世が監督を務めるキャスター陣営の存在は、“新制度”に異を唱える勢力の間でも既に知られていた。

だが、化野菱理が監督するライダー陣営は行動が読めず、未だに”得体の知れない存在”として各陣営の警戒を集めていた。

「(となると──一番目立って敵意を見せていないのは、あの陽気なランサーと亜梨沙さんのランサー陣営か。 あとは……あの妙にダンディなアーチャーと──)」

ペンを弄びながら考え込んでいた時──

──ツンツン。

右肩に軽く衝撃を感じた。

ボールペンのノック部分で突かれた様だ。

振り返れば、案の定そこにいたのはアーチャーのマスターである恵茉だった。

彼女は小さく口元に笑みを浮かべ、他の学生に聞かれぬ程の声量で囁く。

「私市くん、考えごとしてたでしょ?……聖杯戦争のこと。 気をつけないと、先生にバレたら今度こそ単位落とすかもよ?」

「ははっ……美穂川さん、ありがとう。」

自分の人生を左右しかねない単位を案じるその一言に、一竜は苦笑いを浮かべ、再び教授の声へと耳を戻した。

──その頃、セイバーはと言うと。

今日も大学の体育館で、剣道部の非常勤コーチとして指導にあたっていた。

「そう、その踏み込みです! 皆さん、ついに形になってきましたね!」

「直さん、ありがとうございます!」

セイバーの指導は理に適い、かつ実践的であった。

部員達は達成感と喜びを感じながら上達してゆき、今やかつて自信のなかった者すら目に見えて伸びていた。

部活を終え、着替えを済ませたセイバーに、部員達は声を揃えて挨拶を送る。

「直さん、本日もありがとうございました!」

彼女がそれに深々と一礼を返すと、剣道部顧問の冴島教授が日当を渡しつつ声を掛けてきた。

「井上さんのお陰で、地方大会でも好成績を残せました。 本当にいつもありがとうございます。 今日からは少し色をつけさせて頂きますよ。」

渡された封筒には、一万円の日当と、更に三千円が添えられていた。

「こちらこそ、ありがとうございます。 部員の皆さんが素直で、学びも早いお陰です。」

「はは、謙遜なさらず。 また次回もよろしくお願いします。」

「こちらこそ、次回もよろしくお願い致します。」

軽やかに答え、セイバーは満足げな微笑みを残して体育館を後にした。

外に出ると、そこには講義を終えた一竜と恵茉が待っていた。

「セイバー、お疲れ様。 今日もアルバイトは上手くいったみたいだな?」

「ええ。 部員の皆さんは実直で……教える甲斐があります。」

恵茉がその光景を微笑ましく眺める中、三人は正門へ向かって歩き出した。

「セイバーも、生前培った剣技を活かせているんだね。 現世を満喫してるって感じ。」

「そうですね。 されど、彼らからは、“まるで侍みたいだ”と言われますが……。」

苦笑いするセイバーに、一竜が頷く。

「侍は“仕える者”だからな。 セイバーは寧ろ仕えられる立場だし、ちょっと違うよな。」

「はは、そう言えばセイバーこの前も言ってたもんね。」

恵茉も、セイバーが”侍”と言われることを嫌がっていたことを、以前のセイバー陣営とアーチャー陣営の模擬戦闘の時から覚えていた。

話も盛り上がってきた中、正門を抜けると──

「よぉ、恵茉。 それにお二人さんも、お疲れさん!」

木陰にロードバイクを立てかけ、スポーツドリンクを飲んでいたアーチャーが手を振った。

「今日は早いね、アーチャー?」

「はは、暑さにやられたよ。 空気が蒸してて走る気が続かなかったんだ。 だから早めに切り上げて来たのさ。」

サーヴァントは気温による体調の影響は人間程ではないのだが、生前はアリゾナ育ちの彼にとって、日本の湿気は雰囲気だけでも慣れないものがあった。

一竜も納得した様に頷き返す。

「日本の夏は蒸すからなぁ。 流石のアーチャーもキツいか。」

「あぁ、そうだな。 お前さんらもこんな大変な中よく頑張ってるよな。 一竜は予定とかあんのか?」

「まぁ、課題もまだ残ってるし、だらだらして夏季長期休暇になる前に済ませないとかなぁ。」

叡光大学の夏季休暇まではまだ2か月。

学業に追われる一竜達にとっては僅かな時間でもあった。

彼も、これまでに気が付いたら締め切り三日前だったということも、何度も経験したのだろう。

「それでも、一竜殿もたまには気分転換も必要かと。 学業に励むのも大事ですが、気を抜くのも侮れませんよ。」

「あぁ、そうだよなぁ。」

セイバーの心配の声に、一竜も溜め息混じり笑いながら返すしかなかった。

その様子を見て、スポーツドリンク入りのボトルの蓋を閉め、アーチャーがニヤリと笑いながらこう提案する。

「よし、息抜きしてぇんならこうしようか。 明日は恵茉と栄植(さかえ)のサイクリングショップに行く予定なんだ。 一竜、お前さんも一緒に来てみねぇか?」

「えっ、オレも? ……美穂川さん、大丈夫?」

「いいんじゃない? 私市くんもセイバーも、インドアな遊びばかりだし。 たまには外の風を感じるのもいいかもね。」

恵茉としても、アーチャーにロードバイクの良さを知る仲間が出来ることを楽しそうに思っていることもあるのであろう。

彼らの提案に、セイバーが微笑みながら一竜を見つめ、こう告げる。

「……一竜殿、ここはお言葉に甘えるのがよろしいかと。」

「そっか……じゃあ、ありがたくご一緒させてもらうよ!」

一竜の前向きな返答に、アーチャーの顔に満面の笑みが浮かぶのは言うまでもなかった。

「それにしても……美穂川さん。 今日の講義中にも考えちゃったんだけどさ。 こんな平和な日常の中で、他の陣営はどうしてるんだろうな。」

「さぁね。 案外、同じように平穏を楽しんでるんじゃないかな?」

二人の呑気なやり取りに、ほんのりとした緊張の緩みが漂っていた──

当然ながら、他の陣営もまた静かな日々を送っていた。

まだ陽射しが強い宝仙区の街並みを、仕事が早上がりだった亜梨沙は首掛け扇風機の風に当たりながら歩いていた。

「(あれから怖いことは何も起きてない。 メルヴィンさんからの定期連絡も、最近は様子見か世間話ばっかり……。 このまま続いて欲しいけど、いつ次の戦いが始まっちゃうんだろう……。)」

物騒ごとが苦手な亜梨沙は、次の戦闘に自分が巻き込まれるのではと内心怯えていた。

その時、ランニングウェア姿の青年が軽快な足音と共に近づいてくる。

「おぉ、亜梨沙! お疲れ! 暑さにやられてないか?」

日課のランニングを終え、丁度近くを歩いていたランサーである。

先もあげた様に、サーヴァント故に気温の影響はあまりないが、それでも彼女を気遣う心は忘れない。

「あ、ランサー。 ランニングお疲れ様。……ねぇ、日本の夏って、やっぱり蒸し暑くない?」

「はっはっは! 祖国だって雨季は蒸してたぞ! それに、今はサーヴァントだからへっちゃらだ!」

冗談めかして笑うが、彼の故郷のインドも雨季には湿度が60%を超えることがある。

最も、乾いた季節が多く、日本の夏程不快ではなかったろう。

「流石ランサーだね。 でも、もうスポーツドリンクも空なんでしょ? サーヴァントでもそろそろ排熱しないと、疲れちゃうかもしれないよ? 冷たいものでも食べに行こ?」

「おっ、いいな! じゃあ近くのアイス屋にしようぜ!」

二人はルーフで覆われた商店街のアーケードを抜け、チェーンのアイスクリーム店へ足を運んだ。

店内のひんやりした空気の中、ランサーはナッツを散らしたチョコレートアイスと、パチパチ弾けるキャンディ入りの薄緑アイスを二段に重ね、豪快にかぶりつく。

「あぁ、走った後のアイスは最高だな! 生き返るぜ!」

「ふふ、よかったね。 でも急いで食べると頭がキーンってなっちゃうから気をつけてね?」

亜梨沙は笑みを浮かべつつ、カップの苺とチョコのアイスを一口ずつ掬い、彼を眺めていた。

やがて──

──ブルルッ

亜梨沙のスマホが震え、新しい通知を告げる

画面を開いた瞬間、彼女の瞳がきらりと輝いた。

「えっ、限定グッズのキャンペーン!?」

その内容は、推しアニメの抽選情報だった。

開催場所のアニメショップは奇しくも、翌日にセイバー陣営と共に向かう予定の栄植(さかえ)にある支店である。

「おっ、推し活ってやつだな?」

「そう! 明日からイベントが始まるんだって!」

アイスの残りを口に付けたままのランサーに顔を向ける彼女の目は、期待で眩しい程に輝いていた。

「明日は休みなんだろ? だったら明日行こうぜ! ついでに買い物するなら荷物はオレが持つよ! それと、その街にインド料理屋があったら”煮込み”でも食べようぜ!」

「うん、行こう! ……でもランサー? そろそろあれもカレーって認めたら?」

「いーや、これだけは譲れねぇ! あれは”煮込み”だよ!」

祖国のカレーと所謂カレーライスを別物とする彼にとって、頑ななこだわりである。

召喚当初はその陽気さに翻弄されてばかりだった亜梨沙も、今では笑いながら軽口を交わせるほどに心を許している。

それこそが、戦いの幕間に訪れる束の間の平穏と言えよう──

一方その頃、隣町の桃園区(ももぞのく)

とあるカフェの一角で、キャスター陣営とロード・エルメロイⅡ世、そしてグレイの四人が向かい合っていた。

「あら、エルメロイ先生もますますお忙しくなりそうなんですねぇ!」

纐纈(くくり)は特大いちごパフェを掬いながら、朗らかに声をかける。

「……そういうことだ。 間もなく本腰を入れなければ、以前のバーサーカー陣営の事件の様に、この“新制度”の歪みが拡がってしまうかもしれん。」

ロード・エルメロイⅡ世の口調は静かだが、言葉の奥に重みがあった。

聖杯戦争の新制度廃止を求める運動。

その最前線にいる彼の周囲では、情報も緊張も日々渦巻いている。

「現状、アサシン陣営はバーサーカーに潰され、そのバーサーカーも我々が退場させた。 冨楽謙匡(よっちゃん)一人では実質敗退……。 つまり新制度賛成派が監督していた陣営は、両方共消えたことになる。 これで少しは落ち着くんじゃないかい?」

チーズケーキにチョコレートソースをたっぷりかけながら、キャスターが軽口を叩く。

(せつ)達もそう考えていました。 ですが、バーサーカー陣営を監督していた魔術師、シリル・ファラムスが何やら意味深なことを口にしていましたし、未だ動向の掴めぬ魔術師もいます。 その警戒もあり、師匠はしばらく目を光らせることとなりました。」

グレイが静かに告げるその声は真剣だったが、視線はふとキャスター陣営の前に並ぶ甘味の山へと逸れ、僅かに瞳が輝いていた。

「なるほど。 ここからがエルメロイ先生の踏ん張りどころって訳ですね!」

「……まぁ、前向きに言えばそういうことだ。 それにより、しばらくはグレイが窓口になる。 何かあれば彼女に伝言してくれ。」

ロード・エルメロイⅡ世は視界の端で、以前にも見た様な甘党地獄に、また胸焼けを起こしそうになっていた。

一方の纐纈(くくり)は、パフェを楽しげに平らげながら、肩を竦める。

「わかりました。……って言っても、ここしばらく何にも起きなさすぎて、キャスターはゲーム三昧、僕はゲームか案件探しか作品作りか筋トレか、そんな感じですケドねぇ。」

「確かに、今は拍子抜けする程に平穏だな。 だが、油断は禁物だ。 何かあってからでは遅い。」

「はい! 引き続き気を張っておきます!」

「ふふふ、私も心得ておくよ。」

キャスターはチョコレートソースで(まみ)れたチーズケーキを口に運び、纐纈(くくり)はパフェの苺を頬張る。

その光景にロード・エルメロイⅡ世は紅茶を流し込み、口内に自然に広がる甘さを必死に中和していたが──

「すみません、ホットケーキを。 シロップは多めでお願いします。」

「なっ!?」

ついにグレイが甘味の誘惑に屈し、己からもいよいよホットケーキを注文してしまう。

完全に甘党地獄に包囲されたロード・エルメロイⅡ世は、胸を押さえながら小さく呻いた。

やがて面談が終わり、四人はそれぞれ解散した。

キャスター陣営は甘味で満ち足り、同じ気持ちのグレイが甘味の暴力に打ちのめされたロード・エルメロイⅡ世と共に、それぞれの帰路を渡る。

帰り道、両手を後頭部に組み、纐纈(くくり)が口を開く。

「まぁ、今のところ知ってる陣営はランサー陣営だけだし。 構えろって言われても、情報が足りなすぎるよねぇ。」

「そうだね。 それに、亜梨沙はおっとりしているけど、ランサーは戦いになれば間違いなく変わる。 ましてや、彼女が傷つけられたら、きっと……ね。」

「うん。 あのランサーとは出来れば敵対したくないよ。 気前もいいしさ。」

実際、以前に顔を合わせた時も敵対することなく、互いに和やかに過ごせた。

特に纐纈(くくり)はランサーと妙に気が合っていたこともあり、戦場で再会したくないのだろう。

「まぁ、それより私は明日のゲーム大会が楽しみでね。」

キャスターは相変わらず、聖杯戦争よりもゲームに天秤を傾けていた。

「あぁ、そう言えばいよいよだよねぇ。 キャスター、最早聖杯戦争より士気が高まってない?」

「ふふふ、だって賞金五万円だよ。 (つかさ)も欲しい物を考えておくといいよ。 キミの誕生日も近いしさ。」

取らぬ狸の皮算用ではあるが、彼女の目には自信が宿っていた。

オンライン対戦でトップランクを連勝している彼女なら、オフラインの舞台でも力を見せるだろう。

「はは、それはありがとう。 でも賞金はキャスターが好きに使ってよ。」

「ふふ、それが私の好きな使い方だけど?」

「……ありゃりゃ、こりゃあ一本取られたよ! じゃあ、お言葉に甘えて考えてみちゃおっかなぁ。」

二人して、互いに軽口を叩き合いながら笑い合う。

これこそが彼らの日常であり、戦いの影の合間にある何よりの安らぎだった。

一方こちらも──平穏、とは言い難いが、静かに暮らす日々が続いていた。

タワーマンションの一室、カーテンを閉ざした暗い部屋で、轡水(ひすい)は今日もデイトレードの画面に睨みを利かせ、合間に冷たいキーボードへ指を走らせていた。

何も変わらぬ生活の筈なのに、その眉間の皺はいつもより深い。

──聖杯戦争の動きが、あまりに静かすぎた

嵐を求める者にとって、沈黙ほど苛立たしいものはない。

やがて玄関が開き、日課の散歩を終えたライダーが戻ってきた。

右手にはコンビニ袋をぶら下げている。

「京介、戻ったぞ。 手土産を持って参った。 たまには真面(まとも)な食事もせぬと、身が保たぬぞ。」

袋の中には、ツナマヨネーズのおにぎり、フライドチキン、紙パックのオレンジジュース、三大栄養素を無理やり寄せ集めた、ライダーなりの気遣いだった。

「……ふんっ、また余計な世話を。 だが、食べ物を粗末にする趣味もない。 そこに置いてくれ。」

「うむ。」

溜め息と共に轡水(ひすい)がPCデスク横の小テーブルを指さすと、ライダーは素直に袋を置いた。

その時──

~♪♪♪

スマートフォンが震え、着信音が響く。

化野菱理から、ROPEを介した定期連絡だった。

株価の波形から視線を外さぬまま、轡水(ひすい)はスマートフォンにヘッドセットを差し込み、応答する。

「……化野か。 定期連絡だな。」

『ご機嫌よう、轡水(ひすい)様。 えぇ、仰る通り。 お変わりはございませんか?』

不機嫌さを隠さぬ声で返す轡水(ひすい)に対し、化野は抑揚なく淡々とした声を返す。

──この距離感こそ、いつもの二人のやり取りだった。

「……ふん、分かりきったことを聞くな。 何もなさすぎて退屈で仕方がない。」

『やはり。 私も担当として連絡を続けておりますが……戦場を望まれる貴方には苦痛でしょうね。』

「……まったくだ。 いつになればライダー(こいつ)の力を見せられる?」

見えぬはずの顔からでも、声色だけで苛立ちが伝わる。

化野は一拍置き、静かに告げた。

『……それについては断言できません。 ただ、近いうちに──必然的にその時は訪れるでしょう。』

「……ほぉ。 過度な期待はしないが、そういうことにしておこう。 こちらはいつでも覚悟はできている。」

口ではそう言いつつ、轡水(ひすい)の声音は僅かに和らいでいた。

化野は最後に、薄氷を踏む様な声で意味深な言葉を囁く。

『えぇ。 貴方の理想へ至る道は……そう遠くないでしょう。』

こうして、やがて通話が切れ、再び静寂が訪れた。

轡水(ひすい)は肩を竦め、先程の袋からフライドチキンを取り出すと、包み紙を破って齧り、その姿をライダーが静かに見守る。

決して平和と呼べる空気ではないが、この二人にとっては確かに日常と呼ぶべき時間が流れていた。