一方、同じ頃の祐天区──
オフィス街の一角にあるIT企業〈ミライディヴ株式会社〉のオフィスでは、先のキャスター陣営との闘いから未だ傷の癒えぬ冨楽の姿があった。
彼は上司の男性に、貸与されていたラップトップや社員証を返却しに来ていたのである。
「いやぁ……やっぱり冨楽くんがいなくなるのは寂しいよ。 後輩をしっかり引っ張ってくれてたし、そろそろ役職を任せても不思議じゃなかったのにねぇ。」
「課長、ありがとうございます。 ですが体調不良が続き、しかもこの怪我では……。 会社にこれ以上ご迷惑をかけられませんので。」
冨楽は戦闘の後、病院で入院している間もリモートで業務をこなしながら、退職の意を示していた。
社内の多くの上司が引き留めたものの、ついに手続きを済ませ、この日が退職日当日である。
「そうか……色々大変だったんだね。 だけど、冨楽くんみたいに真面目で面倒見のいい人間なら、どこへ行ってもやっていけるよ。 今まで本当にありがとう。」
課長はそう言って、冨楽の肩を軽く叩いた。
すると、上司や幹部、社員達の間から功労を讃える拍手が湧き起こる。
冨楽は笑顔で応えたものの、その笑みは決して満点のものではなかった。
やがて彼は一礼し、暖かい拍手の中、会社から姿を消した。
──程なくして。
隣町の半個室カフェに腰を下ろした冨楽は、一杯のコーヒーを前に沈思していた。
「(……やっぱり、シリルさんと出会って聖杯戦争に関わり始めてから、俺は壊れてきてるよな。 アサシン陣営との闘いの後も、衝動的に半グレのぼったくり店をバーサーカーと襲ったり……もう顔も覚えられて、迂闊に動けやしない。)」
報道陣には顔を割られない様に立ち回っていたが、アサシンのマスター・猪狩が生前属していた古井戸組は勿論、多くの半グレ組織にも冨楽の顔は知られてしまっていた。
となれば報復は必至。
しかもバーサーカーを失った今、彼は格好の獲物に他ならない。
「(……会社に迷惑をかける前に辞められて良かった。 全部シリルさんの所為だって言いたいけど……結局は俺だ。 疲弊しきってたとはいえ、昔のイキリ癖を出して突っ走った。 後に引けなくなったのも、自分の選択の結果だもんな……。)」
根は真面目な男だからこそ、自分の過ちも直視せざるを得ない。
その苦悩は胸に重くのしかかっていた。
「(でも……。)」
冨楽がバッグのジッパーを開けると、中には焼け焦げた藤の束と、鈍く光を帯びる金属が収められていた。
「(どうせもう元の生活に戻れない。 いずれにせよ人生を棒に振るのなら──決心するしかない……!)」
その瞳は赤黒く血走り、覚悟を固めた獣の様に見開かれていた。
「(お父さん……お母さん。 ここまで育ててくれたのに、本当にごめん。 これが終わったら縁を切って欲しい。 そうしてくれた方が安心出来るから……。)」
震える右手が、その決意の苛烈さを物語っていた。
「(……でも今は、少し遊んで落ち着こう。 明日は久しぶりに栄植でも行くか……。)」
その胸中は、未来を投げ捨てた者の諦念と、微かな未練とで満ち溢れていた。
今の冨楽を止められる存在は、最早どこにもいないだろう──
話は数日前に遡る──
都内某所の寺にある墓場の一角に、古井戸組長と幹部、数名の構成員が並び立っていた。
その寺は、かつて反社会的組織に身を置いた男が住職となり、永代供養を名目に商いをしている場所である。
そこには、聖杯戦争の只中で散った男──
猪狩昌真の墓があった。
組長をはじめ、一同が黙して手を合わせる。
墓前には数日前に供えられた芋羊羹が乾きかけており、その横に新たな酒瓶が静かに置かれた。
「……昌真。 さっき、ミルコさんから連絡があったぞ。 お前を葬ったあのサーヴァント……奴は、別の陣営にやられて消えたそうだ。」
──その連絡を受けたのは墓参りの直前だった。
キャスター陣営がバーサーカー陣営を討ったと知ったライネスが、浅之寺でミルコと接触した際に交換していた連絡先を通じ、こう告げてきた。
『──そういう訳で、兄上が監督している陣営が、バーサーカー陣営を討ち取りました。 ミスター・ボテッキア、貴方が見ていらっしゃっていたマスターの属していた組織にも、良き報せとなるでしょう。』
『そうか……。 エルメロイの姫君、報告感謝する。』
そのやり取りを経て、古井戸組長の耳にも報せが届いたのである。
──墓参りを終えた一同は組へ戻り、緊急招集が開かれた。
「もう耳にした者もいるだろうが……報告だ。 昌真を殺したバーサーカーは消滅した。 そして、奴のマスターも重傷で動けぬと聞く。」
その言葉に、多くの組員の目に涙が滲んだ。
「……猪狩の兄貴。 知らねぇ誰かが仇を討ってくれましたよ……。」
「昌真……良かったな……。」
その様子には、安堵と悔恨が見て取れた。
自分の手で仇を討ちたかった想いが心の奥に渦巻き、涙は苦く流れ落ちる。
組長は沈黙の後、低く響く声で告げた。
「──そこでだ。 お前達に頼みがある。」
その言葉に、全員の視線が吸い寄せられる。
深く息を吐き、組長は続けた。
「あの男……バーサーカーのマスターは、たった一人では……ましてや重傷とあらば既に聖杯戦争から脱落したも同然だ。 昌真の仇を取りたい気持ちは、正直俺も同じだ。 だが、もうこれ以上報復しようとするな。 いや……してやらないでくれ。 ……分かったな?」
「……はい。」
構成員から返事はあったが、その声にはいつもの威勢はなかった。
最愛の兄貴分、可愛い弟分──
その命を奪った冨楽を、心から許せる筈がない。
古井戸組長もそれを理解しているからこそ、命令ではなく”頼み”として告げるしかなかった。
──そして今。
とある構成員の幹部と若手は、アサシンが残した酒の流通のシノギを受け継ぎ、日々齷齪と働いていた。
作業が一段落した頃、若手からぽつりと声が漏れる。
「……兄貴。 やっぱり俺はどうしても、猪狩の兄貴をやりやがったあの男だけは許せませんよ……。」
「俊之、お前もか。 哲夫も同じことを言ってた。 ……まぁ、お前らは昌真には散々世話になったもんな。」
やはり、彼らには冨楽を許すことは出来ていなかった。
「親父さんの言いたいことも分かります。 でも……あいつを見つけたら、絶対にボコボコにしてやりたいです。 一発なんてもんじゃ済ましません。」
「……あぁ、俺も同じだ。 親父さんには頭を下げられたが……焼きは入れたい。」
その憎悪の炎は、只の私怨ではない。
“家族”を奪われた者達の想いが込められ、重く沈んでいる。
それは、半グレ組織の個人的で軽薄な恨みとは比べ物にならぬ程の質量を持っていた。
冨楽が危惧していた通り、彼の行動範囲はもう四方から脅かされつつあった──