幾ばくかの時が流れた、夏の昼下がり。
容赦のない日差しが宝仙区の空を焦がし、公園のアスファルトを白く照り返している。
その外周を、常識外れの疾風が駆け抜けた。
並木が大きくしなり、葉擦れの音が遅れて追いかける、まるで音速の壁を叩き割らんとする衝撃波──
ロードバイクを駆るアーチャーと、己の脚力のみで並走するランサーである。
人外の競走は最早日常の一部と化し、ここ数日で公園を訪れる人々の密かな名物となっていた。
子供は歓声を上げ、年配者は目を丸くし、スマートフォンを構える者までいる。
「へへっ、ランサー! やっぱお前さんみたいな俊足と走るとよ、心の底から最高な気分になれるよ!」
「はっはっは! 嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか! オレだって、こんな速ぇ乗り物と競えるなんて滅多にねぇ! 自分磨きにもなるし、何より楽しいぜ!」
陽光の下で風を裂きながら交わされる二人の笑声は、戦場の影を微塵も感じさせない。
少し離れたベンチでは、恵茉と亜梨沙がその様子を見守っていた。
呆れ半分、安堵半分──それでも頬は自然と緩んでいる。
「ランサー、あんなにイキイキしてる。……よかった。」
「うん。アーチャーもね、誰かと本気で競いたかったんだって。 この時間が、今一番楽しみなんだってさ。」
ここ数日で、二人も自然と距離を縮めていた。
年齢の近い女性同士ということもあり、亜梨沙はすでに対等な口調を許している。
やがて、競走を終えた二騎が談笑を交えながら歩み寄ってきた。
「ふぅ……今日も思いきりかっ飛ばした。 脚力だけで張り合える相手がいるってのは、本当に面白ぇな。」
「そのうちバイクや車とも張り合えそうだぜ、オレ達ならな!」
アーチャーがロードバイクを押しながら肩を回し、ランサーは汗を輝かせながら豪快に笑った。
「アーチャー。 今日も楽しめてよかったね。」
「ランサー、お疲れ様。 スポーツドリンク、ちゃんと冷えてるよ。」
亜梨沙がバッグから取り出したのは、保冷剤やタオルに囲まれたペットボトルだった。
それを受け取ったランサーの顔が、夏の日差しに負けないくらいに明るくなる。
「サンキュー、亜梨沙! やっぱ汗かいた後はこれだよな!」
蓋を捻ると、マイクを握るロックスターさながら天を仰ぎ、一気に煽る。
喉を鳴らす豪快な音と共に、中身の半分が消え去った。
サーヴァントにとって水分補給は必須ではないのだが、彼にとってこの一連の所作こそが“走り切った証”である。
「恵茉。 俺も帰りにコーヒー飲みてぇな。 汗だくだから、テイクアウトでな。」
「うん。 じゃぁ、アタシが買っとくよ。」
アーチャーはいつも利用してる喫茶店で、口髭の似合うダンディな中年として顔が利いている。
汗まみれで店内に入るのは、彼の流儀に反するのであろう。
穏やかな空気が流れ、男二人の会話にも花が咲いていた。
「本当に、仲良いよね。」
「うん……正直、刃を向ける日なんて想像できない。」
その言葉が、夏の熱気に溶けた──その時。
「それがよ、恵茉。 ちょいと話しときたいことがあってな。」
アーチャーが、変わらぬ調子で口を開き、ランサーが話を繋げ始めた。
「オレ達、来週あたりで闘おうかって話してたんだ。」
そこには重さの欠片もなく、あまりにも軽い声音だった。
友人同士が次の遊びの予定を立てる様な、屈託のない響きがその場の異様感をもたらしていた。
「……えっ!? ちょっと待って!? いくらなんでもあまりにも急すぎない!?」
「ランサー!? アーチャーとこんなに仲良くなってるのに、もう闘っちゃうの!?」
二人は思わず慌てて立ち上がるも、当の彼らは笑顔で、まるで真逆だった。
「おう! だからこそ、だろ? 丁度いいと思ってな!」
「そういうことだ。 余裕をもって来週にしたから、慌てなさんな。」
互いに理解したからこそ、刃を交えられる。
信頼したからこそ、本気で斬り結べる。
その確信が、そこにはあった。
「……あはは。 亜梨沙さん。 もう、この二人がそう決めたなら……仕方ないと思うよ。」
恵茉は、どこか力の抜けた笑みを浮かべながらそう言った。
それは諦観というより、理解の表情だった。
「多分、 ここでアタシ達が止めたら……一生恨まれるかも。 少なくとも、“あの時やれていれば”って顔を、ずっとされると思う。」
軽く肩を竦めて見せるが、その左足は落ち着きなく小刻みに揺れていた。
心の底ではまだ納得しきれていない証だが、亜梨沙はそのことに気づかない。
「……恵茉ちゃん。」
迷いを湛えた声が、夏の空気に溶ける。
その空気を、アーチャーが軽く切り裂いた。
「サンキュー、恵茉。 恨むかどうかはともかくよ……確かにこの機会を逃したら、俺は後悔するだろうな。」
その声音は、普段の自宅でコーヒーを飲む時の様に穏やかだった。
だが奥底には、猟犬の様な鋭さが潜んでいる。
「亜梨沙も心配すんなって! 寂しさなんざ吹き飛ばすくらい、最高の闘いをしてやる! オレとアーチャーでな!」
ランサーはいつも通り屈託なく笑う。
闘いを恐れていないのではなく、寧ろそのものを肯定しているのだった。
その笑顔が、亜梨沙の胸を締めつける。
「……うん。 そこまで言うなら、止められないよね。 どうせ避けられないなら……怖いだけの闘いよりは、まだマシかも。」
絞り出す様な言葉は承諾であり、彼女としての祈りだった。
「ありがとうな、亜梨沙!」
彼女の肩をぽんと叩くその手は、戦場で数多の命を奪ってきた英雄のもの。
だが今は、ただの明るく豪快な、それでも優しい青年の温度だった。
亜梨沙は小さく頷くしかない。
「でも……日中は人が来るかもしれないし、 夜にしよう? 人が捌ける時間帯に。」
恵茉から現実的な提案が示された。
闘いは言わば英霊同士によるある種の幻想でも、被害は現実である。
「それもそうだな。 だが俺の相棒は、静かな夜には騒がしすぎるからなぁ。」
苦笑するアーチャーの愛銃──S&W M3。
発射の瞬間、シリンダー部からもガスが放出される構造上、銃口のみを抑えるサプレッサーでは完全な消音は不可能である。
静寂の中で放たれれば、それは狼煙に等しい。
「そこはゆっくり考えよ。 来週まで時間はあるんだし。」
銃器に詳しい訳ではない恵茉だが、それでも思考を止めるつもりはない。
闘うと決めた以上、勝たせる為の準備をする。
それがマスターとしての責任なのであるから。
「流石恵茉だな! アーチャー、次に会うのを楽しみにしてるぜ!」
「──ああ。 俺もだ。」
ランサーは豪快に笑い、アーチャーの肩を組む。
まるで遊びの約束でもするかの様だが、その実交わされたのは真剣勝負の契約。
二人の背中には、夕刻へと傾き始めた陽光が長く影を落としていた。
それを見つめながら、恵茉と亜梨沙は小さく息を吐く。
止められない、止めるべきでもない。
だが──理解と受容は、決して同義ではない。
夏の風が、四人の間を静かに吹き抜けていった。
やがて穏やかな談笑が尽き、軽い挨拶を交わした両陣営は、それぞれ別の方角へと歩き出した。
アーチャーは愛用のロードバイクに跨り、恵茉はクロスバイクでその後を追う。
彼に影響された訳ではないが、遊びに付き合う為、そして日常の足としても不便のない様に、恵茉はその一台を選んでいた。
「ねぇ、アーチャー。」
「おう。」
潮干方面の表示が見える国道へ合流しかけた、その瞬間だった。
「ランサーと闘うって話……アンタ、勝算はあるの?」
問いは決して軽くなく、それはマスターとしての責任の重さだった。
成り行きとはいえ聖杯戦争に選ばれた以上、彼女は“見届ける側”である。
遊びではなく、消滅を賭けた闘いを。
「ああ。正直に言やぁ、楽じゃねぇな。」
「えぇ!? そんな即答しなくても!」
あっけらかんとした返答に、恵茉は思わず声を上げる。
やがて二人は赤信号によって、停止線の前で車輪を止めた。
「ランサーは瞬発力が桁違いだ。 俺の<ruby>S&W M3<rp>(</rp><rt>相棒</rt><rp>)</ruby>が奴を捉えるには、目で追ってちゃ間に合わねぇ。 必要なのは、ほとんど予知に近い神懸かった先読みだな。」
アーチャーはハンドルに肘を預けながら、身振り手振りも加えて淡々と続ける。
「要は近づかせねぇこと。 跳弾で翻弄するか、リロードの隙をどれだけ削れるか。 そこが勝負の分水嶺だろうさ。」
その声音には、恐れよりも高揚が混じっていた。
「……なんだか、楽しそうだね。」
「当然だ。 俺はキツい戦場を生き延びてきた。 今は“楽しめる闘い”ができるんだ。こんな贅沢はねぇ。」
その顔には、少年の様な昂揚と老練な狩人の鋭さが同居している。
目の前の信号が青に変わり、二人は同時にペダルを踏み込み夕暮れへと走り出した。
一方その頃。
浮かない顔で自転車を押しながら歩く亜梨沙の隣を、ランサーが並ぶ。
高架へと続く道、西日が長い影を地面に落としていた。
「ははっ! 亜梨沙、どうした? そんな顔して、やっぱ怖ぇのか?」
「……だって。 今度こそ本当の闘いなんでしょ? どっちかが、消えちゃうんだよね?」
彼女はまだ、この戦争の現実に慣れきれていない。
途中で中断されたアサシン陣営との衝突、交流を深めたセイバー陣営との模擬戦。
それらを経てもなお、“誰かが消える”という結末を飲み込むには、彼女は優しすぎた。
「まぁ、戦争だからな。 アーチャーには、銃っていう飛び道具もあるから油断ならねぇ。 オレでも、舐めてかかりゃ危ねぇさ。」
ランサーの声音は軽いが、その目は確かに戦場の光を宿している。
未知の武器に対する警戒は怠らない、それが歴戦の英雄というものである。
「今のオレにできるのは、どれだけ速く動いて、どれだけ早く間合いを詰めるか。 要は、いつも通りだな!」
屈託のない笑みを見せるランサーに、亜梨沙がふと問い掛ける。
「……どうしてそんなに楽しそうなの? 闘いでしょ?」
「決まってるだろ? オレ達がやるのは、ただの殺し合いじゃなくて、真剣勝負だ。 憎しみで斬り合うより、よっぽど気分がいいだろ?」
夕陽が横顔を照らすその笑顔は、闘いを肯定するものではない。
己の在り方を肯定するものだった。
亜梨沙の胸を締めつけていた不安は、完全には消えない。
だが、ほんの僅かだけ和らいだ。
二人は高架下をくぐりながら静かに言葉を交わし続け、そのまま亜梨沙の家へと向かっていった。
闘いの日は、確実に近づいている。
だが今はまだ、ただの夏の帰り道だった。