交わされた男同士の約束から、翌日。

午前の講義を終えた恵茉は、叡光学園キャンパス内の馴染みの休憩スペースに腰を下ろしていた。

昼下がりの陽光が差し込み、木製の年季のかかったテーブルに淡い影を落としている。

彼女はスマートフォンを耳に当て、静かに言葉を紡いでいた。

「──そういうことなんです。 アーチャーは“男と男の誓いだ”なんて、誇らしげに言ってて……。 ルヴィアさんにも、やっぱり分かりませんよね?」

『お察しの通りですわ。 友情を確かめ合うために敢えて刃を交えるなど、魔術師としても(ワタクシ)個人としても理解し難い行為ですわね。』

スピーカー越しに返る気品ある声音の持ち主は、彼女の監督役であるルヴィアだった。

整理をつけるのが少し遅れてしまったとはいえ、報告を欠かさないのは恵茉らしい律儀さである。

『ですが──前例が皆無というわけでもありませんのよ。 私(ワタクシ)の身近な魔術師が、互いを尊敬しながら刃を交えた英霊達を見たことがある、と聞き及んでおりますわ。』

それは無論、ウェイバー・ベルベット青年──現在のロード・エルメロイII世の記憶。

彼のサーヴァントである征服王と、黄金の英雄王が王の器を巡る議論の末に訪れた決闘。

数日前まで杯を交わし、語り合った者同士が誇りを携え、刃を向け合った夜のことだった。

「正規の聖杯戦争でも……そんなことがあったんですね。 ずっと、もっと血生臭いだけのものだと思ってました。」

『基本的にはその通りですわ。 ですが、異例は確かに存在しましてよ。 貴女方が夜会を開いたように、少数で酒を酌み交わした例の様にね。』

誇りある王たちの議論、聖杯への願い、そしてそれぞれの覚悟。

戦争の只中であっても、理念は燃え続ける。

『ですから、ミス・美穂川。整理がつかないお気持ちは理解しますわ。 聖杯戦争未経験の(ワタクシ)が言うのも僭越でしょうが、誇り高き闘いができることを幸運と受け取りなさい。』

その言葉は冷静でありながら、どこか温度があった。

「……ありがとうございます、ルヴィアさん。 また何かあれば、連絡します。」

通話を終えた恵茉は、無駄のない所作でスマートフォンをバッグへしまい、財布を取り出してすぐ横の自販機でアイスを一つ購入した。

包装を破る音が、妙に大きく感じられる。

「(やっぱり……今は、あの円満な約束を信じるしかないのかな。 聖杯戦争に関わった以上、結局は避けて通れない。)」

学徒らの談笑が飛び交う空間の中、彼女だけが、別の戦場に立っている。

思い馳せていたその時、彼女の元に見知った人影二人が歩み寄った。

「美穂川さん、お疲れ。講義終わったとこ?」

「ご機嫌よう、恵茉殿。 本日も励んでおられます様で何よりです。」

現れたのは、一竜とセイバーだった。

午後の講義と、剣道部コーチのアルバイトへ向かう途中らしい。

「……恵茉殿? 何やら浮かぬお顔ですが、いかがなされましたか。」

恵茉の様子をいち早く察したのは、セイバーだった。

彼女は自然な動作で隣に腰を下ろす。

「あー、やっぱりバレちゃったか。 丁度いいや。 私市くんにも話しておこうと思ってた。」

「え? オレにも?」

三人は同じテーブルを囲む。

以前触れたアーチャーとランサーの決闘、その決意の固さ、自分と亜梨沙の拭いきれない不安──恵茉は、包み隠さず語った。

「左様でしたか……。 いよいよ、その二騎が刃を交えるのですね。」

恵茉に勧められた最中(もなか)アイスを手に、セイバーはどこか遠くを見る様な表情で呟く。

「あぁ……思ってたより早いよな。」

一竜も小さく息を吐き、アイスキャンディーを齧っていた。

「うん。 アタシもまだ迷ってる。 でも、アーチャーを有利に闘わせる方法は考えないと。」

一見すれば、友人同士の穏やかな昼休みだが、その内側では聖杯戦争という名の歯車が確実に回転している。

真剣勝負の重みが恵茉を通して、セイバー陣営へも静かに伝播していった。

闘いは、最早当事者だけのものではない。

同じ頃──宝仙区の複合商業ビル。

休日シフトだった亜梨沙は、キャラクターグッズショップでの買い物を終え、エスカレーター脇のベンチに腰を下ろしていた。

手にはスマートフォン、その耳元からはどこか軽みを帯びた声音が流れている。

『おやおや。 いよいよ亜梨沙ちゃんも、本格的な聖杯戦争の闘いに身を投じる訳だねぇ。 君の成長をこの耳で聞けるなんて、私は実に光栄だよ。』

その声の主は、宿泊先ホテルで増血剤を含み横たわっているメルヴィンだった。

「……そんな、立派なものじゃないんです。 (あたし)、まだ実感が湧かなくて……。 ランサーとお別れするかもしれないって思うと、怖くて……。」

最悪の未来が、どうしても頭から離れない。

内向的で、後ろ向きで、失うことを恐れる性格は彼女の弱さであり、同時に人間らしさでもあった。

『うんうん、分かるよぉ。 でもね、もう少し信じてみてもいいんじゃないかな? ランサーのことも、私が伝授した簡易魔術のことも──そして、自分自身のことも。』

人をからかい、俗物的な思想も隠さない彼であるが──それでも今は、軽くも珍しく真面目だった。

「分かってはいるんです。でも……どうやって信じればいいのか、分からなくて。」

『簡単さ。 考えるより、感じること。 理屈じゃない。 亜梨沙ちゃんが“信じたい”と思うものを信じるんだ。 血が沸き立つ感覚に従えばいい。 きっと、決闘の日になれば分かるさ。』

拍子抜けする程に単純明快だが、亜梨沙の凝り固まっていた思考に小さなひびが入った。

「……分かりました。 まず、ランサーを信じます。 ありがとうございました。」

『私は何もしてないけどね。 じゃあ、良い知らせを待っているよ。』

あっさりとした挨拶の後に、呆気なく通話が切れる。

亜梨沙はスマートフォンを鞄にしまい、当てもなく施設内を歩き出した。

「(信じる……。 ランサーは信じられる。でも、簡易魔術と(あたし)自身を、どうやって……?)」

重い足取りで、気付けば中古ゲームショップの前に立っていたその時──。

「ふふふ。 後期型のスーパーファミマシ実機がこんな近くで手に入るなんてね。」

「うん、俺も嬉しいよ! 懐かしいタイトルも揃ってるし!」

店の中から、聞き覚えのある声が耳に入ってきた。

「……あ、SMOKEさん。 キャスター。」

店から出てきたのは、やはりキャスターと纐纈(くくり)だった。

レトロゲームにも興味を抱いたキャスターに付き添い、纐纈(くくり)も懐古の波に乗ったらしい。

「ありゃ、亜梨沙さんこんにちは! 偶然ですねぇ!」

「やあ、亜梨沙。 元気……という顔ではなさそうだね。」

観察眼の鋭いキャスターは、不敵な笑みと共に一瞬で察する。

図星を突かれた亜梨沙は、観念した様に口を開いた。

やがて三人は、地下フロアのソフトクリーム店の前で並んでいた。

手にはそれぞれ渦を巻く甘味が握られているが、語られる内容は甘くない。

「へぇ……完全に男同士の熱い友情ってやつですね! なんとなく分かりますよ、僕は!」

四種ミックスの高層ソフトを掲げ、纐纈(くくり)がしみじみ語っていた。

「それにしても、思ったより早いね。 いずれやるとはあの夜会で聞いていたけれど。」

キャスターは八種盛りの色彩をスプーンで崩しながら続ける。

「それで亜梨沙は、自分に何ができるか分からず、俯いていた訳だね。」

溶けかけたソフトを慌てて舐め取りながら、亜梨沙は頷く。

「監督役の魔術師の人にも言われました。 ランサーも、簡易魔術も、自分も信じろって……。 でも、どうやって信じればいいのか……。」

「なるほどぉ。 じゃあ、使えそうな手段を、片っ端から試してみるのはどうです?」

「え?」

予想外の提案に、亜梨沙は目を瞬かせる。

キャスターが口元を拭いながら補足する。

「その通り。 兵無常勢って言葉があって、戦場に固定された正解などない。 亜梨沙の持ち味が、ランサーの武勇を補う瞬間。 その一点が勝利の女神を微笑ますのさ。」

「……自分の、持ち味。」

それは、まだ形を持たない言葉だが、確かに彼女の中で何かが動いた。

平日の喧騒に満ちた地下フロアの一角だけが、静かな戦場の予兆を帯びている。

甘い香りの中に、ほんの僅かな火薬の気配が混じった。

それから、幾ばくかの時が流れ──

避けられぬ刻限は、静かに訪れた。

アーチャーとランサー、両雄による決闘の夜が。

時刻は午前一時──街は眠り、人工の光だけが冷たく地面を照らしている。

人気の途絶えた歩道を、二つの影が進んでいた。

軽くストレッチをしながら歩く恵茉と、その隣には、コンビニホットコーヒーの紙コップを片手にしたアーチャーである。

「ねぇ、アーチャー。 考えられるだけ考えてみたけど……本当に、なんとかなるのかな?」

夜気に溶ける不安の中、アーチャーは済ました顔で肩を竦める。

「どうせ手探りだ。 まずは闘う。 それだけで充分だろ。」

軽い調子だが、その横顔には隠しきれない昂揚と覚悟が宿っていた。

足取りは軽く、それは恐怖を知らぬ者の歩みではない。

恐怖を抱えたまま、踏み出す者の歩みである。

「それも、そっか。 ところでそのコーヒー、全然飲んでないけど?」

「あぁ。 ちょっとな……使い道がある。」

含みのある言い方には、悪戯を企む子供の様な、どこか楽しげな気配が見えていた。

やがて二人は、約束の大型公園へと足を進めていった。

その頃、別の夜道。

車通りもほとんどない静かな道を、もう二つの影が歩いていた。

辺りを気にしながら歩く亜梨沙と、その前でスポーツドリンクをホルダーに提げたランサーが高揚を隠さず進んでいる。

「ランサー……。 (あたし)なりに考えてみたけど、本当に大丈夫かな……?」

「はははっ! まーだ考えてたのかよ! できるかどうかじゃねぇ、やるかどうかだろ?」

彼は曇りない笑顔で、亜梨沙の肩をポンっと叩く。

その無邪気さは、戦場を知る男のものとは思えないほど眩しい。

「……それもそうだけど。 ところで、そのスポーツドリンク、闘いの途中で飲むの?」

「これか? いや、ちょっとな。やっときたいことがある。」

そう言うと、右手でボトルを持ち上げる。

その表情は、まるで旧友と会う前の様な穏やかさだった。

そして、まるで計ったかの様に、二つの陣営は同時に公園へ辿り着く。

街灯の光の下、それぞれが見合った。

「よっ。 この時を待ってたぞ。」

「おう! オレもだよ! ……その前にさ。」

ランサーが歩み寄り、差し出したのは例のスポーツドリンクだった。

「闘う前に、これ飲んでみるか? スッキリして美味いぞ。」

その無邪気な笑みに、アーチャーも口元を緩める。

代わりに差し出したのは、これまた例の紙コップだった。

「奇遇だな。 俺もお前さんに、こいつを飲ませたかった。」

互いの飲み物を交換し、盃を交わす様に、容器を掲げる。

殺し合う筈の英霊が、静かに飲み物を含み始めた。

「──あれ? 相変わらずって言ったら相変わらずだけど……なにやってるんだろう?」

「……うん。 なんだか、爽やかに酌み交わしてるね。」

恵茉も亜梨沙も、戸惑いながら二人を見つめていた。

宗教上ランサーは酒を口にしないが、今の光景は、確かに酒を酌み交わす様な“儀式”だった。

かつての第四次聖杯戦争を知る者──ロード・エルメロイII世が見れば、既視感を覚えたであろう。

やがて、彼らの口から感想が交わされる。

「……甘ったるいが、確かにスッキリしてて悪くねぇな。 運動後に欲しくなる理由が分かるよ。」

「苦いけど、なんだか落ち着くな! またゆっくり飲みてぇよ!」

嗜好は違えど、本質を認め合う。

「おっ、最初から勝った口振りだな。 まっ、確かに俺に勝てたら、いくらでも飲めるぞ。」

「そっちこそ、オレに勝ったら自転車の合間に飲んでくれよな!」

軽口を肴に笑い合い、気付けば容器は空になっていた。

そして、互いのマスターに容器を預ける。

一歩、また一歩と間合いを開いたその瞬間──

私服が弾け、霊基が展開する。

アーチャーは、二丁のリボルバーと弾帯を備えた西部開拓時代の保安官を思わせる装束へ。

ランサーは、上裸に煌めく装飾を纏い、民族的な衣装を揺らし、自慢の足は簡素な履き物に包まれ、戦士の姿へと切り替わった。

「亜梨沙。 お前さんは物陰に隠れてな。 流れ弾で傷つけたくねぇし、怒り狂ったランサーと闘いたくねぇ。」

「アーチャー、亜梨沙への気遣いサンキューな!」

それが、闘い前の最後の言葉だった。

亜梨沙はベンチの陰へ、恵茉はアーチャーの背後へ、それぞれの配置が整った。

街灯の下、視線が交錯する。

友情、信頼、そして覚悟。

全てを抱えたまま、今こそ決闘の火蓋が切って落とされていった──